水戸地方裁判所土浦支部 昭和63年(ワ)62号 判決 1993年6月15日
《目次》
主文
事実及び理由
第一 請求
第二 事案の概要
一 事案の説明
二 前提となる事実
1 当事者について
2 組換えDNA実験の意義(争いがない)
3 本件施設及びP4実験室について
4 組換えDNA実験における安全確保の方法(争いがない)
(一) 物理的封じ込め
(二) 生物学的封じ込め
5 本件番号一六、一七の各実験について(争いがない)
三 原告らの主張
1 本件施設の環境
2 組換えDNA実験の危険性
(一) 組換えDNAの感染性と生物災害の危険性
(二) 本件番号一六、一七の各実験による被害発生の危険性
(三) 組換え体の漏出による危険の特殊性
(四) P4実験室を用いる実験の危険性
3 被告らの生物災害発生回避義務
(一) 物理的、生物学的安全性確保義務
(二) 社会的安全性の保証義務
4 組換えDNA実験の違法性と被告らの過失
(一) 物理的封じ込めの不完全性
(二) 生物学的封じ込めの不可能性
(三) 実験指針の緩和とその有効性の喪失
(1) 認定宿主の緩和
(2) 物理的封じ込めレベルの緩和
(3) 実験指針の有効性の喪失
(四) 社会的安全性の保証の欠如
5 原告らの権利の侵害
(一) 本件P4実験室をP4レベルの組換えDNA実験に使用する行為による権利の侵害
(二) 本件番号一六、一七の各実験による権利の侵害
6 被告らの責任
(一) 民法七〇九条、四四条の責任
(二) 民法七一七条の責任
(三) 民法七一八条の責任
7 不法行為に基づく損害賠償請求等
(一) P4実験室の使用の差止め請求
(二) 本件番号一六、一七の各実験による慰謝料請求
8 人格権の侵害に基づく実験の差止め請求
四 被告理化学研究所の本案前の主張
1 請求の不特定
2 将来の請求の必要性の欠如
五 被告らの主張
1 組換えDNA実験の安全確保について
(一) 実験指針等による安全確保
(二) 物理的封じ込めによる安全確保
(三) 生物学的封じ込めとウイルス
(四) 実験指針の緩和について
(五) 基準外実験について
2 本件番号一六、一七の各実験について
(一) 本件各実験の目的、方法、結果
(二) 本件各実験における安全管理
3 差止め請求の問題点
(一) 不法行為に基づく差止め請求について
(二) 人格権の権利性及びこれに基づく差止め請求について
4 損害賠償請求の問題点
第三 当裁判所の判断
一 被告理化学研究所の本案前の主張について
1 請求の特定
2 将来の給付請求の必要性
二 被告理化学研究所及び本件施設の概要について
1
2
三 実験指針について
1 実験指針の目的及び内容
(一)
(二) 封じ込めの方法について
(1) 物理的封じ込め
(2) 生物学的封じ込め
(三) 封じ込め方法選択の基準
(四) 基準外実験と国の指導
(五) 組換え体の取扱と実験関係者の責務
2 実験指針による安全確保の有効性
四 本件施設の組換えDNA実験棟、本件P4実験室の概要及び安全管理の方法について
1 本件施設の組換えDNA実験棟、本件P4実験室の設備の実際
2 組換えDNA実験の安全管理の方法
3 本件施設の実験指針の充足
五 原告らが組換えDNA実験における安全確保の問題点として主張する点について
1 物理的封じ込めに関して
(一) HEPAフィルター漏出防止について
(二) 排水の滅菌処理による漏出防止について
(三) その他の方法による漏出とその防止策について
2 生物学的封じ込めに関して
3 実験指針に関して
(一) 宿主拡大による実験指針の緩和と安全確保
(二) 物理的封じ込め緩和の影響
(三) 基準外実験について
4 社会的安全性について
六 本件各実験に関する原告らの主張について
1 本件各実験の内容及び実施の経過
2 本件各実験による生物災害の発生のおそれ
七 原告らの本訴請求について
1 差止め請求について
2 損害賠償請求について
八 結論
原告
東郷正孝
同
宮本慈子
同
佐藤雅彦
同
土屋敬子
同
中嶋スミ子
原告ら訴訟代理人弁護士
久保田謙治
被告
理化学研究所
右代表者理事長
小田稔
右指定代理人
芝田俊文
外一二名
被告
小田稔
被告ら訴訟代理人弁護士
水上益雄
同
柳澤弘士
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第一請求
1 被告理化学研究所は、つくば市高野台三丁目一番地所在の理化学研究所ライフサイエンス筑波研究センター施設のうち、別紙図面(一)記載の赤斜線部分のP4実験室をP4レベルの組換えDNA実験に使用してはならない。
2 被告らは、各自、原告らに対し各金一〇万円を支払え。
第二事案の概要
一本件は、茨城県つくば市及び牛久市に居住する原告らが、被告理化学研究所の別紙図面(一)記載の赤斜線部分のP4実験室(以下、本件P4実験室という。)におけるP4レベルの組換えDNA実験により、その生命、身体に回復しがたい重大な損害を受けるおそれがあり、平穏で安全な生活を営む権利や生命、身体に体する安全性の意識が現に侵害されているとして、被告理化学研究所に対し、不法行為及び人格権に基づいて右P4実験室をP4レベルの組換えDNA実験に使用することの差止めを求め、また、すでに右P4実験室でなされた後記の番号一六及び一七の各実験により損害を被ったとして、被告理化学研究所及びその理事長である被告小田稔に対し不法行為に基づく損害賠償を求めている事件である。
二前提となる事実
1 当事者について
被告理化学研究所は、昭和三三年一〇月二一日、理化学研究所法に基づいて、科学技術(人文科学のみに係るものを除く。)に関する試験研究を総合的に行い、及びその成果を普及することを目的として設立された特殊法人であるが(<書証番号略>)、昭和五九年三月、つくば市高野台三丁目一番地に理化学研究所ライフサイエンス筑波研究センター施設(以下、本件施設という。)を建設して所有し、所属の研究者により組換えDNA実験を行っており、被告小田稔は、その理事長として研究者からの右実験申請を承認する権限を有する者、原告らは、本件施設の付近に居住している者である(争いがない。)。
2 組換えDNA実験の意義(争いがない。)
組換えDNA実験とは、ある生細胞内で増殖可能なDNA(デオキシリボ核酸)と異種のDNAとの組換え分子を、酵素などを用いて試験管内で作成し、それを生細胞に移入し、異種のDNAを増殖させる実験である。
その技術は、一九七三年アメリカ合衆国において確立されたが、その当時から科学者を中心として実験の安全性に関する議論が高まり、法的規制をも含め安全性の確立が議論された結果、アメリカ合衆国では科学者による自主規制の方向で検討が進み、一九七六年六月国立衛生研究所(NIH)によりガイドラインが定められ、我が国においても昭和五四年八月二七日、内閣総理大臣により組換えDNA実験指針(以下、実験指針という。)が策定された。右実験指針は昭和六二年九月一六日までに八回の改訂を経て、現在に至っており、我が国ではこれを自主規制のガイドラインとして組換えDNA実験が行われている。
組換えDNA実験の目的は、遺伝子組換え技術の確立であるが、確立された技術によって、医薬品の開発、遺伝病の治療のほか、農業、鉱業、公害の除去など、幅広い開発、生産に寄与できるとされている。
3 本件施設及びP4実験室について
本件施設は、内閣総理大臣の諮問を受けた科学技術会議による、最高度の物理的封じ込め機能(P4レベル)を有する組換えDNA実験区域を備えた総合的研究施設設置の必要性に関する提言に基づいて、被告理化学研究所によって建設されたもので(争いがない。)、五万平方メートルの敷地に、別紙図面(二)記載のとおり、組換えDNA実験棟、高圧滅菌処理棟、RI廃棄物処理倉庫、研究棟二棟、細胞遺伝子保存施設、実験動物維持施設、エネルギーセンター、排水処理施設、管理棟、情報・研修棟等が建てられている。組換えDNA実験棟は敷地のほぼ中央に位置する地上二階の鉄筋コンクリート造の建物で、内部には別紙図面(一)記載のとおりP4実験室及びP3実験室が各二室、P2実験室が四室設置されているほか、P1実験室が三室設けられている(<書証番号略>、弁論の全趣旨)。
右のP1ないしP4というのは、組換えDNA実験における物理的封じ込めの程度を示すものとして前記実験指針に規定されており、P4が最高度の物理的封じ込め機能を意味する(争いがない。)。
4 組換えDNA実験における安全確保の方法(争いがない。)
実験指針によれば、組換えDNA実験の安全確保のため、病原微生物学実験室で一般に用いられている標準的な実験方法を基本とし、実験の安全度評価に応じて、物理的封じ込め及び生物学的封じ込めの二種の方法を組み合わせることにより、安全確保を行うことになっている。
(一) 物理的封じ込めは、組換え体を施設、設備内に閉じ込めることにより、実験従事者その他の者への伝播及び外界への拡散を防止しようとするもので、その程度によりP1からP4までの四段階に分けられている。
(二) 生物学的封じ込めは、特殊な培養条件下以外では生存できない宿主(組換えDNA実験において、DNAの組換え分子を移入される生細胞)と、宿主以外の生細胞には移行しないベクター(組換えDNA実験において、宿主に異種のDNAを運ぶDNA)を組み合わせることにより、組換え体の環境への伝播、拡散を防止するか、又は生物学的安全性が極めて高いものと認められた宿主―ベクター系を用いることにより組換え体の生物学的安全性を高く維持し、実験の安全を確保しようとするもので、宿主―ベクター系の安全性の程度に応じてB1とB2に分けられている。
(1)(2)<省略>
5 本件番号一六、一七の各実験(以下、本件各実験ともいう。)について(争いがない。)
被告理化学研究所は、ウイルスをベクターとして利用し、人に有用な遺伝子を生物細胞あるいは動物に効率的に導入し得る技術を確立することを目的として、理事長及び科学技術庁の承認を得て、昭和六二年一二月から次の二つの研究を行い、昭和六三年六月から平成元年三月まで、本件P4実験室を利用しての実験を行った。
(一) ヒト細胞に遺伝子を導入させるレトロウイルスベクター系の安全性評価研究その一(番号一六の実験)
両性レトロウイルス(人にもマウスにも感染し得るレトロウイルス)由来のベクターが、細胞内において二次的なウイルスを生じ、計画外の遺伝子の伝播を行う可能性の有無について評価するために、癌遺伝子などを両性レトロウイルスにより動物細胞(マウス)に導入し、腫瘍化を起こすウイルス粒子の出現について検索するものである。
(二) 同研究その二(番号一七の実験)
マーカー遺伝子として抗生物質性遺伝子を両性レトロウイルスにより動物細胞(マウス)に導入し、抗生物質性遺伝子をもつウイルス粒子の出現について検索するものである。
三原告らの主張
1 本件施設の環境
本件施設の存するつくば市高野台地区は、住宅都市整備公団(当時は日本住宅公団)が、つくば市における都市づくりの一環として住宅地の造成をしたところで、第二種居住専用地域に指定されており、同地区だけでも一三〇戸以上の住宅が存在し、三〇〇人以上の住民が生活している。
2 組換えDNA実験の危険性(本件各実験を中心として)
(一) 組換えDNAの感染性と生物災害の危険性
モロニーマウス白血病ウイルスの実験によると、組換えDNAが原ウイルスDNAと同じくらい感染性があり、条件によってはいっそう感染性が高められることが明らかとなっている。
P4レベルでの組換えDNA実験では、癌遺伝子等の人に感染し発病する遺伝子を一定の著しく複雑な増殖サイクルをもつRNAウイルスであるレトロウイルスを用いて生細胞に移入し、レトロウイルスの増殖サイクルの中で癌遺伝子を増殖させる。したがって、増殖された癌遺伝子は、遺伝子の個体間、種間の遺伝的伝達を行う(水平伝達)とともに、生殖細胞に感染することによって、世代間の遺伝経路に乗ることになる(垂直伝達)。すなわち、レトロウイルスの増殖サイクルの中で増殖された癌遺伝子は、ウイルスとともに人の生細胞に入り込み、同じ増殖サイクルを通じて人の生細胞を癌化させ、また、生殖細胞に入り込んだ癌遺伝子は垂直伝達を行う。その結果、人の細胞は癌遺伝子を持ったレトロウイルスの感染により癌となり、また生殖細胞への感染によって子の細胞が発癌することとなる。
(二) 本件番号一六、一七の各実験による被害発生の危険性
(1) 本件番号一六の実験は、癌遺伝子を両性レトロウイルスによって動物細胞に導入する方法によって行われるので、右実験により予定どおり出現するウイルスは癌遺伝子を有するウイルスである。これが実験室より外部に漏出した場合、本件P4施設近隣に住む原告らはこの腫瘍化を起こすウイルスに感染し、癌を発病することになる。また、右実験によって予定外の遺伝子を有するウイルス粒子が出現し、その漏出によって原告らがこれに感染したときは、未知の病気の発病が予想される。
(2) 本件番号一七の実験は、抗生物質耐性遺伝子を両性レトロウイルスによって動物細胞に導入する方法によって行われるので、右実験は当然抗生物質耐性遺伝子を持つウイルスの出現が予定されており、これが外部に漏出したときは、原告らが抗生物質によって治療不可能な病気の出現を見ることになり、予定外の遺伝子を有する粒子が出現したときは、未知の病気に感染することになる。
(3) 右のいずれの場合にも、原告らは、本件各実験により癌等の病気を発病し、身体或いは生命に損害を受けるのである。
(三) 組換え体の漏出による危険の特殊性
物理的封じ込め及び生物学的封じ込めは安全確保の方法として万全とはいえず、また実験指針の内容も安全性に問題のあることからすれば、現在の実験指針に基づいて行われる組換えDNA実験では、実験技術者、科学者が先ず感染の危険にさらされ、次いで感染力をもった菌に環境が汚染され、生物災害の生ずる危険性がある。
ところが、このような組換え体の漏出は検出が不可能である。「人に病気が出た。家畜に病変が起こった。作物がおかしい。樹木がおかしい。」という結果が出て、初めて漏出がわかるのである。これまでに、組換え体が漏出したと考えられる例はいくつかあるが、特に、旧ソビエトでは経験したこともない伝染病が流行し、何千人もの人が病気にかかった事例もあり、生物災害は単なる潜在的危険性ではなく、具体的危険性として存在するのである。
(四) P4実験室を用いる実験の危険性
本件P4実験室は、実験指針にいう基準外実験を行うことを目的として設置されたものである。無論、基準の内外を問わずあらゆる実験に危険が伴うものではあるが、P4実験室を用いて行うべき基準外実験の場合は、生物災害発生の確率ないし危険性がより高いであろうとの予測を根拠に、個別に国の指導の下で実験が行われるのである。このことを逆にいえば、P4実験室を用いて行うべき実験は、より危険であるということになり、その危険性は国の指導の下で実験が行われたとしても変わるものではない。国が指導したか否かといった形式的なことで、パイオハザードの強弱という客観的評価が変化することはあり得ない。
かくしてP4実験室を利用して行われるべき性質の実験は、本来的に相当に危険なものであるということができるのである。
3 被告らの生物災害発生回避義務
(一) 物理的、生物学的安全性確保義務
本件P4実験室で行われる実験は、自然界では起こり得ない方法により微生物の遺伝子構成を形成し創出せしめるため、重大な生物災害を引き起こす危険性が極めて大である。このような危険性、結果の重大性は、同時に結果回避義務が高度に存在することを意味し、その義務は被告らの共同して負担する法的義務である。
被告らは、原告ら住民の生命、身体に対し生物災害を未然に防止すべき法律上の義務があり、物理的、生物学的に安全性を確保する義務を負うものである。
(二) 社会的安全性の保証義務
組換えDNA実験のように高度の技術を要し、危険性を伴う実験を住宅地内で行う場合には、次に述べるような社会的安全性をも兼ね備えるべき法律上の義務を負い、これが不十分なときは実験そのものが不法行為になるものというべきである。
(1) 人間は、いかなる場合にも最終的には権利の保有者であり、自らの生存や身体にかかわる事柄に関しては、自らの価値判断に基づき自らが決定するという自己決定の原理が保証されなければならない。先端技術、特に本件のような生命工学の進歩と適用については、権利の保有者の集団である社会とのかかわり合いの中でバランスを保つ必要がある。したがって、公共政策として生命工学の必要性が提示されたときは、自己決定の原理に則って政策決定がなされなければならない。本件のような先端技術としての遺伝子操作を行う生命工学は危険性を伴うものであるから、それが公共政策として決定される場合、付近住民に対する情報の十分な提供とその決定への参加が保証されなければならない。
(2) 本件組換えDNA実験においては、原告ら住民に対して、①実験内容、目的、住民或いは人類全体に対する影響の資料の提供、②右資料の十分な説明、③第三者の参加、科学者以外の専門家の参加、④住民の参加、⑤実験の決定、⑥実験の実行の過程を経ることが保証されなければならない。
4 組換えDNA実験の違法性と被告らの過失
組換えDNA実験における安全確保の方法としては、物理的封じ込め及び生物学的封じ込めの二種の方法を組み合わせることにより行うことになっているが、これによる実験施設と外界との遮断は完全ではないので、右実験を実施することは許されない。
(一) 物理的封じ込めの不完全性
組み換えられた遺伝子等が実験室外に漏出する経緯としては、空気の出入り、排水、実験施設の破壊、実験者による漏出などが考えられる。
(1) 空気の出入りによる漏出については、HEPAフィルター(空中粒子高性能捕捉フィルターで99.97パーセント以上の捕集効率があるとされる。)を用いてウイルス粒子等の漏出を防止する仕組みで、その二重使用により99.999パーセントの捕集が可能とされている。
しかし、右の性能検査は細菌について行われたものであって、細菌より小さな粒子であるウイルスはこれを通過してしまうおそれがあり、またHEPAフィルターがすべて規格どおりの性能を有するとはいえず、規格外品が使用されるおそれもある。
(2) 排水については、一定の薬品処理等を加えて漏出を防止する仕組みであるが、レトロウイルスや遺伝子という分子次元のものには有効でない。
(3) また、実験従事者の体内(細胞)に紛れ込んだ遺伝子は、一定の増殖サイクルの中で増殖するが、それが他に感染することについては何ら防止策がなく、実験施設が地震や事故、テロリズムなどによって破壊されて漏出するおそれもある。
(4) さらに、いかに安全設備が完備し、いかなる安全監視体制がとられていても、一連の作業に従事する個々の研究者が安全の実現のために不断の努力をしなければ安全性は保障されない。研究者といえども人間であるかぎり、人為的ミスを絶対に発生させないことは不可能である。現に、過って注射器で自分の手を刺した例、白衣の胸ポケットに試験管を入れておいて、下を見たために床に落としエアロゾルを発生させた例などが報告されており、物理的封じ込めには限界があるといわざるを得ない。
(二) 生物学的封じ込めの不可能性
生細胞あるいは一部の細菌については、生物学的封じ込めの概念になじむものの、それ自体増殖等の生命活動を有しないウイルスには妥当せず、ウイルスを生物学的に封じ込めることは不可能である。
(三) 実験指針の緩和とその有効性の喪失
(1) 認定宿主の緩和
当初の実験指針では、生物学的封じ込めのための最も安全な菌として大腸菌の特定株・K12株だけが宿主として認定されていたが、その後酵母菌、枯草菌の特定株が追加され、現在では動植物培養細胞を宿主とする宿主―ベクター系や大腸菌K12株と特定のベクター系との組合せも認められている。
ところで、被告理化学研究所においては、組換えDNA実験を行う場合は、理事長に対して実験の承認を申請し、理事長はその安全性についての審査を組換えDNA実験安全委員会(以下、安全委員会という。)に諮問する扱いになっているが、右の認定宿主を使う限り、安全委員会に対して実験の詳細な内容を示して審査を申請する必要がないことから、このような認定宿主の緩和は、実験の安全性に重大な影響を及ぼすこととなる。
(2) 物理的封じ込めレベルの緩和
物理的封じ込めの面においても、一九八二年の緩和により、哺乳動物の細胞に他の生物の遺伝子を導入する場合、従前はP4あるいはP3レベルという厳しい基準で行われていたものが、P2レベルで行えるように緩和された。
(3) 実験指針の有効性の喪失
以上のように、緩和された現在の実験指針の内容は、クローン化されたDNAが原ウイルスDNAと同程度に感染性を有することを看過し、また、外の環境でも生き残りそうなものまで加えられており、科学的安全性は全く保証されておらず、もはや実験指針は規制としての性格を失しているものといわねばならない。
殊に実験指針の予定するP4レベルの物理的封じ込めを必要とする実験は基準外実験であるが、これは安全度評価の確認されていない実験であり、本来的に相当に危険な実験であり、国の指導の下に行われるとしても、国の指導という形式的なことで生物災害の危険性が変わるものではない。
しかも、実験指針は、自主規制として国が実験者らに示したものであるが、法的な強制力を全く伴わない規制であり、P4レベルの実験が国の指導の下に行われるとはいえ、完全に自己規制がなされるとは思われない。
(四) 社会的安全性の保証の欠如
被告らは、前記社会的安全性の保証の過程のうち①から④を欠落し、本件P4実験室での実験を行うことをまず決定したうえで、強引に実行し、また今後も実行しようとしている。そのうえ実験の説明においても、実験の利点のみを強調し、必要性を説くばかりで、実験が住民や人類全般にどのような影響を及ぼすかの説明はなされていない。
そもそも我が国においては、組換えDNA技術が安全であるか否かが公に議論されたことは一度もなく、安全性が社会的判断としてではなしに、一部の実験推進者らを中心にした、安全だとする主張をもって置き換えられてきている。しかしながら、安全性というかぎり、社会科学的判断としてのそれのみが存在するのであって、自然科学は安全性を論ずるにつき判断材料を提供するとしても、自然科学それ自体のみで安全性を考える余地は全く存在しないのである。
人体へのリスクが無に近ければ実験は認められるべきというのが実験推進者の考え方であり、これによると人体へのリスクの有無につき判断を下す自然科学の専門家が実験の可否を決定することになるが、実験の是非は社会が決定すべきものなのである。この意味で前項で述べた過程を経て社会的安全性が保証されなけれはならないのである。現在のように、実験推進者らを中心に構成された審議会により密室の審議がなされ、その結果としての答申に基づいてなされる内閣総理大臣決定が社会的判断でないことは勿論である。社会科学的判断というかぎり、それは社会的コンセンサスに立脚したものであることが必要である。本件に即していえば、少なくともP4実験室を用いて行うべき実験、別な角度からいえば、本来的にP1からP3レベルで行うことが許されない実験については、いまだ社会的コンセンサスは成立しておらず、当該実験については社会は危険であると判断しているものということができる。
結局、被告らは、社会的安全性に対する法的義務を一切尽くしていないのである。この社会的安全性は被告らの注意義務の内容をなすものというべきであって、被告らがこれを備えないことは、その注意義務を十分尽くしていないことであり、過失が存することになる。
5 原告らの権利の侵害
(一) 本件P4実験室をP4レベルの組換えDNA実験に使用する行為による権利の侵害
原告ら住民は平穏で安全な生活を営む法律上の権利を有している。これは民法七〇九条、七一七条、七一八条等によって保護されている利益である。ところが、原告らの住居に近接して建設された本件P4実験室で行われる組換えDNA実験は常に生物災害発生の危険性を有し、右実験に使用されるウイルス或いは遺伝子が実験室から漏出して原告らに感染し、その生命、身体に回復しがたい重大な被害を受ける危険性があり、日常的にそのような危険と不安にさらされているのである。したがって、被告理化学研究所が本件P4実験室で組換えDNA実験を行うことによって、原告らは、現在、平穏で安全な生活を営む権利を侵害され、また、生命、身体の安全性の意識を侵害されて損害を受けているのである。
(二) 本件番号一六、一七の各実験による権利の侵害
原告らは、平穏で安全な生活を営む法律上の権利を有し、生命、身体の安全性の意識が日常生活上不可欠な生活意識として法律上保護されているのである。ところが、被告理化学研究所は、独自の安全性理論のみによって、住民の反対を押し切って建設した本件施設の中の本件P4実験室で、理事長の実験承認のもとに本件番号一六、一七の各実験を強行した。右実験は安全性の確保が不十分であるため、右実験に使用されたウイルス或いは遺伝子が実験室から漏出する危険があり、原告らは、現在これに感染していないとしても、将来これに感染して生命、身体に回復しがたい侵害を与えられる危険性にさらされることになった。右実験は高度な科学技術の最先端の研究であって、原告らは科学者とは異なり正確な知識を有しておらず、被告らからも知識の提供もされなかったため、原告らは、すでに被害を受けているか否か不明であるが、仮にないとしても、その不安にさらされ、平穏で安全な生活を営む権利或いは安全性の意識を現に侵害された。
原告らのこうした損害は主観的なものではあるが、それゆえに保護に値しないというものではない。主観的なものであっても法的保護の対象になり得ることは自明のことである。
6 被告らの責任
(一) 民法七〇九条、四四条の責任
被告理化学研究所は、本件P4実験室を含む本件施設を所有し、組換えDNA実験を行う立場にある者であり、被告小田稔は、右実験申請を承認する立場にあるから、P4レベルの実験によって取り扱われるウイルスあるいは遺伝子が、原告ら住民に感染することなどの生物災害を事前に防止する義務がある。
(1) 被告理化学研究所が前述の安全性確保等の義務を十分尽くさないでP4レベルの組換えDNA実験について本件P4実験室を使用することは民法七〇九条の不法行為に当たる。
(2) 被告小田稔が理事長としてP4レベルの組換えDNA実験である番号一六、一七の各実験の承認をそのまま放置し、被告理化学研究所が右各実験を行ったことは民法七〇九条、四四条の不法行為に当たる。
(二) 民法七一七条の責任
被告理化学研究所は、本件P4実験室を所有占有している。そして、本件P4実験室ではP4レベルの実験が予定され、また、本件番号一六、一七の各実験はすでに行われたのであるが、本件P4実験室は、前述のとおり、物理的封じ込めが不十分であって、実験に使用される人体に感染する危険のあるウイルス等が実験室外に漏出することを十分に防止するための機能を備えていない。したがって、これは工作物の瑕疵に当たり、被告理化学研究所は、瑕疵のある本件P4実験室の使用による損害について民法七一七条の責任がある。
(三) 民法七一八条の責任
(1) 組換えDNA実験に用いる微生物については、支配、管理を失した場合には動物と同等あるいはそれ以上に人体に危険を発生させる生物であるから、これは民法七一八条の動物の概念に含まれるといえる。
(2) 本件番号一六、一七の各実験も、レトロウイルスを用いて、生細胞の中に特定の遺伝子を導入し、その再現(増殖)を実験するものであるが、そこでは増殖機能を備えた生物が取り扱われているのである。
そして、これら生物が、一定の組合せによって、人体に病気を発現するのである。したがって、その管理者は、管理を厳重に行い、人体に危険が及ばないようにする義務がある。この義務は、民法七一八条の動物占有者の責任と同質である。
(3) 被告らは、右のような生物を実験室外で生存できないようにすること、つまり生物学的封じ込めによって安全性を確保しているというが、実験室外で生存できないのは細胞であって、その中に導入される遺伝子或いはレトロウイルスは、自然界や体内で十分に生存できるものである。生物学的封じ込めは安全性確保の手段として不十分である。
したがって、被告らは、民法七一八条の責任を免れない。
7 不法行為に基づく損害賠償請求等
(一) P4実験室の使用の差止め請求
原告らは、被告理化学研究所に対し、不法行為に基づく損害賠償請求の一態様として、本件P4実験室をP4レベルの組換えDNA実験に使用することの差止めを請求する。
(二) 本件番号一六、一七の各実験による慰謝料請求
被告小田稔は、被告理化学研究所の理事長であり、本件番号一六、一七の各実験を承認した地位を承継し、右承認のまま放置したものであり、被告理化学研究所は、右承認に基づき本件各実験を行い、これによって、原告らの平穏で安全な生活を営む権利或いは安全性の意識を現に侵害した。原告らが右の不法行為により現に受けた損害は各金一〇万円が相当であるので、その支払を請求する。
8 人格権侵害に基づく実験の差止め請求
前述の原告らが平穏で安全な生活を営む権利は、民法七〇九条等によって保護されている利益であるとともに、個人の尊厳を基礎とする憲法一三条、二五条の基本的人権の一種である人格権である。そして、この人格権は、その主体が直接その利益を支配する権利であるから、これが侵害される場合には、直接支配を回復するため排他性が認められるのである。
本件P4実験室での実験によって、原告らは生命、身体に被害を受ける危険性があり、右人格権についての侵害が予見される。
したがって、原告らは本件において、排他的な権利としての人格権の侵害に基づき、本件P4実験室をP4レベルの組換えDNA実験に使用することの差止めを請求する。
四被告理化学研究所の本案前の主張
1 請求の不特定
原告らが差止めを求める実験の内容が一義的に明確でなく、特定されていないので、訴訟要件である請求の特定を欠いている。
原告らは、本件P4実験室をP4レベルの組換えDNA実験に使用してはならないというが、P4レベルとは、組換えDNA実験の物理的封じ込めの程度を表すもので、実験の種類、内容を特定する概念ではない。
これを、原告らの主張するように、実験指針にいう「安全性の確認されていない基準外実験」を意味するものと解してみても、実験指針において基準が示されていない実験については、個々の実験ごとの安全度評価によってその物理的封じ込めのレベルが定まっていくのであり、場合によってはP1ないしP3レベルでも実施可能とされる場合もあり、基準外実験が一律にP4レベルの物理的封じ込めを必要とされるものではない。
したがって、原告らが請求の対象とする「P4レベルの組換えDNA実験」なるものの概念は、「安全性の確認されていない基準外実験」と同意義ではなく、これでは差止める実験の種類、内容が特定されていることにはならない。
2 将来の請求の必要性の欠如
また、原告らは本件P4実験室を将来にわたりP4レベルの組換えDNA実験に使用してはならないというが、将来の給付請求にかかる部分については、予めその請求をなす必要を欠いており不適法である。
五被告らの主張
1 組換えDNA実験の安全確保について
(一) 実験指針等による安全確保
組換えDNA実験の安全性は、その基本的要件を示した実験指針及びこれに基づいて被告理化学研究所が制定した「理化学研究所ライフサイエンス筑波研究センター組換えDNA実験実施安全管理規程」(以下、安全管理規程という。)に従い、物理的封じ込めと生物学的封じ込めを適切に組み合わせ、かつ安全教育等の安全管理を徹底することによって確保されている。
実験指針は、我が国における最高度の学問的水準に基づく科学技術会議の答申を受けて内閣総理大臣により決定されたものであり、その後の八回にわたる改訂も、制定後新たに蓄積された安全性にかかる科学的知見を踏まえたものであり、また、安全管理規程は、実験指針に定められた基本的要件に基づいて安全かつ適切に実施するために制定されたものであるから、組換えDNA実験は、実験指針及び安全管理規程に従って行われるかぎり、安全性が確保され、生物災害を起こす危険性はないのであり、原告らの非難は科学的根拠に基づかない謬論にすぎない。
(二) 物理的封じ込めによる安全確保
(1) HEPAフィルターの性能
原告らの主張するとおり、HEPAフィルターは「0.3ミクロン単分散DOP(フタル酸ジオクチル)エアロゾルの捕集率が99.97パーセント以上」が基本性能とされており、その二重使用によって、99.999パーセント以上の捕集効率が得られる。
その捕集機構としては、慣性、ブラウン拡散、さえぎり、重力沈降などが考えられ、このうち「さえぎり」による捕集は、粒子の大きさに起因するため、他の機構による捕集効率を上昇させる働きを示す。また、空気中のエアロゾルは気流に沿ってHEPAフィルターの繊細なガラス繊維よりなる濾材内部に入り、自らの慣性や重力により、右繊維に衝突あるいは沈降し、捕集される。さらにエアロゾルの粒径が一ミクロン以下となると、静止気体中でも、それ自体がランダムな運動(ブラウン運動)をしており、この結果、繊維に付着し、捕集される。
原告らは細菌よりも小さなウイルスはフィルターを通過してしまうというが、ウイルスはエアロゾルに接着しなければ空気中を浮遊できないので問題はない。
また、実験指針においては、「HEPAフィルターはそこを通過する空気に含まれている0.3ミクロン以上の粒子を99.97パーセント以上除去する性能を有すること。HEPAフィルターの漏洩試験はDOPの0.3ミクロン粒子発生機と粒子測定機によって行うものとする。」と規定されている。そして、HEPAフィルターは一個一個について性能検査を実施し、右規格どおりの性能を有することが確認されたもののみが製品とされるのである。
さらに、本件P4実験室における実験はすべて密閉構造のクラスⅢの安全キャビネット(以下、グローブボックスという。)の中で行われるが、右グローブボックスには二段のHEPAフィルターが備え付けられているため、実際には、99.999パーセント以上の捕集効率があり、排気中に生物災害につながるような組換え体等の漏出の危険性はなく、安全性は十分確保されている。
(2) 排水その他による漏出のおそれの不存在
本件P4実験室で行った実験に由来してグローブボックスからでる廃棄物(液体、個体等組換え体を含むすべての廃棄物)は、随時グローブボックスに接続した高圧滅菌器(オートクレーブ)で滅菌、あるいは薬剤による消毒、滅菌を実施して、グローブボックス内に保管し、実験終了時における実験室内、グローブボックス内等のホルマリン滅菌により、再度滅菌され、滅菌が確実に行われたことの検査を実施し、その確認がなされている。たとえこれがグローブボックス内の空気中にエアロゾルとして存在したとしても、HEPAフィルターで除去され、施設外に出ることはない。
また、入退出時のシャワーや手洗いからの排水等は、外気に触れることなく高圧滅菌棟内の高圧滅菌タンクに導入して、高圧蒸気滅菌を行い、滅菌終了後には、培養試験により、滅菌が確実に行われていることを確認した後、さらに薬液滅菌を行って排出する。
高圧蒸気滅菌は日本薬局方に定める条件に従って行っており、これによりレトロウイルスは完全に活性を失い、また、枯草菌の胞子も完全に死滅し、漏出するおそれはない。
(3) 本件施設内への漏出のおそれの不存在
本件P4実験室内のグローブボックスは、外気に比べて陰圧(マイナス二〇ミリメートル水柱)であり、その外側の実験室内は陰圧マイナス五ミリメートル水柱、さらにその外側の廊下等は陰圧マイナス二〜三ミリメートル水柱と、三段階の陰圧状態による封じ込めがなされている。
したがって、万一グローブボックスやP4実験室の破損があった場合においても、空気は外から内に流れる構造となっているため、組換え体等が外に漏出することはない。また、排風機類についても、同じ性能を有する主、予備の二系統を備え、自動的に切り替えのできるシステムが導入されており、仮に一系統が故障しても実験室及びグローブボックス陰圧度が保たれる設備を施している。
(4) 操作ミス、人為ミス等の防止
P4実験室を含む組換えDNA実験棟は、建築基準法に定める耐震性能の二倍以上の安全率を有する耐震設計となっており、さらにグローブボックスは、地震の際にも倒れないよう、床面にアンカーボルトで固定されている。また、停電時でも設備、機器類が稼働できるよう、無瞬断装置及び非常用ガスタービン発電機によるバックアップ機能を備えている。加えて、グローブボックス内にはガス配管を施さず、火災の発生を未然に防ぐとともに、万一に備えて、管理室においてもモニターテレビにより実験室内部の状況が把握でき、火災警報装置、これと連動する防火扉の操作盤及び非常用放送設備を備えるなど、現時点での最新の科学的知見をもとにした多重防御の方法の導入により、安全確保を図っている。
一方、人的観点からの安全管理についても、実験開始前における実験従事者等に対する実験の手順ごとの安全確保に関する教育訓練はもちろんのこと、実験室内及びグローブボックス内の陰圧度に関しては、実験室入室前の実験者自身によるチェックと実験中における実験室内の圧力ゲージ等による監視、また中央監視室においての陰圧度の常時監視、さらには安全管理担当者による巡回点検や排水の滅菌とその確認の実施、特に、入室の際は、複数人による監視体制により、人為的ミスを防ぐよう配慮がなされている。
なお、P4実験室では、すべての実験材料、器具がグローブボックス内で取り扱われるため、原告らが三4(一)で主張するような例は起こり得ない。
(三) 生物学的封じ込めとウイルス
ウイルスについて生物学的封じ込めの概念が妥当しないことはない。
ウイルスは伝播能を欠損させる等により生物学的に安全性を高めることが可能であり、現に本件各実験においては計画外の伝播が起きないように改変したウイルスベクターが使用されたものである。
(四) 実験指針の緩和について
実験指針の改訂は、DNAの感染性を含めた安全性にかかる種々の科学的知見等に基づいて行われたのであって、原告が主張するただ一つの実験により改訂されたのではない。
モロニーマウス白血病ウイルスは、マウスのゲノムに潜在的に存在し得るものであるが、現在の指針に則り、DNA供与体として使う場合には、ウイルスとして用いても、また、マウスのゲノムとして用いても、封じ込めのレベルはP2―B1あるいはP1―B2であり、安全性は十分確保できるものである。
また、組換えDNA実験の申請においては、実験指針で認定された宿主―ベクター系を用いる場合であっても、DNA供与体によっては、詳細にわたる申請が必要とされることもあり、一概に原告らが主張するように、認定宿主を使用する限り安全委員会に詳しい申請をする必要がなくなるとはいえない。そして、哺乳動物の細胞に他の生物の遺伝子を導入する場合の物理的封じ込めのレベルについては、使用するDNA供与体によって、P1からP3の物理的封じ込めのレベルで行うこととされたり、基準外として国の指導の下に実施するとされているのであって、原告らの主張のとおりではない。
(五) 基準外実験について
(1) 実験指針にいう基準外実験
基準外実験とは、実験指針にある生物学的封じ込めレベルがB1とB2の宿主―ベクター系を用い、かつ、使用するDNA供与体に応じた物理的封じ込めの基準(P1〜P3)が示されている実験以外の実験をいうが、実験指針においては「基準が示されていない実験」として、次のものが掲げられている。
① 実験指針に示されているB1、B2レベル以外の宿主―ベクター系を使用する実験(安全性が特に高いことが確認された実験を除く。)
② DNA供与体として、実験指針別表3(1)に掲げられている下等真核生物及び原核生物や別表4に掲げられていない真核生物のウイルス等を用いる実験
③ 脊椎動物に対する蛋白性毒素産生能を有する遺伝子のクローン化実験
④ 実験動植物個体への組換え体の接種を含む実験
⑤ 大量培養実験の一部
⑥ 組換え体の自然界への散布を含む実験
(2) 基準外実験と物理的封じ込めの程度
基準外実験は、基準の追加にかかる安全性評価のための実験その他特に科学的知見の増大を目的とする実験が必要な場合には、国の指導の下にこれを行うことができるものとされているが、手続的には、実験責任者が個々の実験ごとに安全度評価に基づいた物理的封じ込めのレベル等を明示した実験計画をその所属する試験研究機関の長に対して申請し、当該機関の安全委員会の審議を経たうえで、国にその実験計画を提出し、科学技術会議ライフサイエンス部会の個別審査に基づいて指導を受け、その後機関の長の承認を受けて初めて実施が可能となる。
右の過程、特に安全委員会の審議及び国の指導(実験計画の個別審査)において、物理的封じ込めのレベルはその用いる宿主―ベクター系の生物学的性質に照らして個々の実験ごとの安全度評価によって決められるものであり、基準外実験においても、特に安全度評価が高いことが確認されればP1レベルの物理的封じ込めで実施可能なものもあり、また、実験によってはP4レベルの物理的封じ込めが必要とされるものもあるのである。
(3) 基準外実験に対する国の指導
基準外実験は、その実験計画書を国に提出し、国の指導の下に実施するものであり、この計画書には概ね次の事項について記載することとされている(その様式は科学技術庁が定めた「組換えDNA実験指針の運用及び改定について」に示されているが、実験計画の内容により多少は異なることがある。)。
① DNA供与体<省略>
② 宿主<省略>
③ ベクター<省略>
④ 施設<省略>
⑤ その他<省略>
このように、用いる生物試料の諸属性、施設の位置等を明らかにすることにより、科学技術会議ライフサイエンス部会において審議され、実験計画どおり実施して差支えないと判断された場合、その旨通知されることとなる。
(4) 被告理化学研究所の本件施設における基準外実験実施の手続
本件施設において基準外の組換えDNA実験を行おうとする者は、組換えDNA実験承認申請書等をライフサイエンス筑波研究センター所長を通じて、被告理化学研究所の理事長に提出する。
<省略>
また、当該実験が実験指針に定めるP3又はP4レベルの物理的封じ込めを必要とする場合は、申請書に加えて、組換えDNA実験安全計画書を添付することとなっている。
<省略>
理事長は、申請書の提出があったときは、被告理化学研究所ライフサイエンス筑波研究センター組換えDNA実験安全委員会に、当該実験計画の安全性について諮問することとなる。
安全委員会は、当該実験計画の実験指針及び安全管理規程に対する適合性等安全確保に関して必要な事項について審議を行い、また必要があればオブザーバーとして同席している申請者、あるいは実験責任者による実験の概要、安全性等の説明を聴取し、当該実験が、実験指針及び安全管理規程に適合しているか否かについて、また国の指導を要する実験(基準外実験)と判断された場合は、その旨についても理事長に対し答申することとなる。
理事長は、この答申を受けて、国に対し、国の定める実験計画書を、また必要に応じて安全性を証明し得る文献等を添付し、提出する。
国は、提出された実験計画の安全確保に関し、科学技術会議ライフサイエンス部会に対して審議を依頼し、同部会の組換えDNA技術分科会において審議が行われる。
組換えDNA技術分科会は、個別課題ごとに安全性を判定するため、実験計画書の記載内容及び必要によっては安全性を証明する文献等を含め、実験の安全性にかかる事項を総合的に審議し、科学技術会議ライフサイエンス部会より国に対し、審議の結果通知することとなる。
国は、ライフサイエンス部会から、実験が安全であるという結果を得られた場合は、計画書どおり実施して差し支えない旨を理事長に対し通知し、これを受けて理事長は実験の承認を行う。
このように、被告理化学研究所においては、基準外の組換えDNA実験につき、実験指針に則り、国の指導を受け、厳格かつ慎重に実験しているものである。
2 本件番号一六、一七の各実験について
(一) 本件各実験の目的、方法、結果
(1) 番号一六及び一七の各実験の目的は、マウス及びヒト培養細胞の両者に感染可能な両性レトロウイルス由来のベクターによって遺伝子が導入された細胞から、二次的にウイルスが産生されないことを確かめることである。右の各実験で使用したベクターは、両性レトロウイルスベクターであり、元来はマウス及びラットにのみ感染するモロニーマウス白血病ウイルスのゲノムをヒト培養細胞に感染するように改変したものである。
そして、マウス及びヒト細胞の双方を宿主域として改変した両性レトロウイルスベクターは、マウス細胞での実験手法と同一の手法をヒト細胞に対しても適用でき、また実験動物としてマウス個体にも感染させて、個体での癌等の形質の発現を観察でき、このことが将来、特にヒト遺伝病治療等ヒトに対する導入系として有用な未知を開くものとして期待されている。
しかし、同時に両性レトロウイルスベクター使用の安全性の確保という面からは、これが一度だけ宿主細胞に感染した後、二次的にウイルス粒子を産生しないことが絶対条件となる。このため実験にはパッケージシグナルを欠損させる方法で増殖能を欠損させた両性レトロウイルスベクターが用いられるのであるが、これが一般的に使用されるためには、実際に二次的ウイルスの産生がないことを確認する安全性評価実験を行う必要があるのである。
(2) そこで、被告理化学研究所は、番号一六及び一七の各実験で右の安全性評価実験を行ったのであるが、使用した両性レトロウイルスベクターはマウス細胞及びヒト細胞に対しても感染性を有し、今回の実験で重要な意義を有する個体での観察である動物(マウス)個体宿主―両性レトロウイルスベクター系の使用が実験指針においてもB1、B2以外の宿主―ベクター系とされていること(したがって、これを用いるのは基準外実験である。)、このような宿主―ベクター系の安全性評価実験は我が国では初めてであり、安全性評価実験においては二次的ウイルスが産生される可能性を最大限見積もる必要性があること、使用するDNA供与体が発癌性ウイルス等であることから、安全確保に万全を期し、最高度の封じ込めレベルであるP4実験室を使用して、これを実施したものである。
(3) 本件各実験は平成元年三月三一日をもって終了したが、その結果、自己複製能を回復した二次的なウイルスの産生は認められず、また実験中及び実験終了後の安全は確保され、実験操作上の過誤、施設、設備の運転、保守上の事故は一切発生せず、実験者、安全管理者等の健康にも全く異常はなく、いかなる意味においても被害は発生せずに、安全に使用し得る新しい宿主―ベクター系として、将来への見通しを開くこととなった。
(二) 本件各実験における安全管理
(1) 実験従事者等への措置
本件各実験にかかる実験従事者及びP4レベル実験区域に常時立ち入る安全管理担当者並びに施設管理担当者(以下、本件実験従事者等という。)全員について、教育訓練及び健康診断を次のとおり実施した。
ア、イ<省略>
(2) P4実験室等の措置
P4実験室は高度の物理的封じ込めができる施設であり、完成時点に各性能検査等を行い、安全保持に関する機能について満足し得る施設であることを確認した。
ア P4実験室等の運転管理及び点検
<省略>
イ 実験器材及び安全器材の配備等<省略>
ウ 排水の管理<省略>
エ 排気の管理<省略>
オ 実験に由来する廃棄物の管理<省略>
(3) 以上の措置により、実験中及び実験終了後の安全は確保され、組換え体等が外部へ出たおそれはなく、また、実験従事者等の健康にも全く異常はなかった。
3 差止め請求の問題点
(一) 不法行為に基づく差止め請求について
(1) 原告らは、不法行為による損害賠償請求の一態様として差止め請求をするというのであるが、民法は、不法行為に基づく法的効果としての損害賠償の方法は金銭賠償を原則とし、いわゆる特定的救済は特別に法令で定めた場合や関係者間に特約のある場合以外は認めていない。すなわち、差止め請求権は、不法行為の効果としては予定されてないものといわなければならない。通説は、このようにして不法行為による損害賠償の方法としての差止め請求権を否定しており、裁判例においてもこれを認めるのは数少ない。原告らの主張は実定法上の根拠を欠いており、失当というべきである。
仮に、不法行為を理由として、加害行為の差止め請求権が生ずる場合があると解する余地があるとしても、それは加害行為がすでになされ、これにより被害者の権利が違法に侵害されて損害が生じた場合で、加害行為が現に継続しているとき、又は加害行為が反復され、あるいは継続される蓋然性が極めて高いときに限られるものと解すべきである。
原告らは、単に加害行為による被害発生の可能性があれば差止め請求をなし得るものと考えているもののようであるが、失当である。そして、原告らは被告理化学研究所による加害行為が存在し、損害を被ったことについては何ら主張していない。本件各実験の実施についての主張がこれにあたるとしてみても、原告らのいう平穏で安全な生活を営む権利あるいは安全性の意識の侵害というものは、結局のところ不安感、憂慮の念にすぎず、このような漠然としたものは、権利保護の対象としては承認できないのであって、これをもって被告理化学研究所の行為の違法性を基礎づける権利侵害、ひいては損害があるということはできない。この点においても原告らの差止め請求は理由がない。
(2) また、原告らは、被告理化学研究所の行う組換えDNA実験は、物理的封じ込め及び生物学的封じ込めが不十分であるうえ、社会的封じ込め(社会的安全性)を欠いており、それゆえに過失があるとか、違法である旨主張する。そして、ただ漠然と組換え体が漏出するとか、生命、身体に被害を受ける危険性があると主張するのみで、どのような因果関係の下で、いかなる態様で被害を受けるのか具体的な主張をしようとしない。
しかしながら、従来からの一般的理解によれば、不法行為における責任要件としての過失、すなわち注意義務違反は、当該事故の客観的、具体的状況を前提にしたうえで、結果予見義務、損害回避義務に違反したことをいうとされているのであって、原告らの右主張は独自の見解というほかない。特に、その主張にかかる社会的封じ込めないし社会的安全性の内容は、およそ、損害との因果関係、結果予見可能性、結果回避可能性に裏付けられた法的な注意義務といえるものではなく、法律的には全く根拠のない謬論である。
したがって、原告らの民法七〇九条、四四条による不法行為に基づく請求は主張自体失当である。
(3) 原告らは更に民法七一七条、七一八条による不法行為をも主張するが、これらについても原告らの具体的損害についての主張が十分でないことは前述のとおりであるから、その主張自体失当というべきである。
(二) 人格権の権利性及びこれに基づく差止め請求について
(1) 原告らは、人格権に基づいて差止め請求をするともいうが、いわゆる人格権は、実定法上全くその根拠を欠くものであり、たやすく承認することはできない。
殊に、原告らの主張する人格権なるものは、排他性をもった権利であるというのであるが、我が国の現在の法体系の下では、実定法上の根拠なしにこのような物権類似の効力を有する強力な権利を軽々に承認することは到底できない。
人の生命、身体、精神的自由等の人格的利益が最大限尊重されるべきことを否定するものではないが、それらの人格的利益について、どのような私法上の権利を構成するか、どのような要件の下に、どのような法律上の保護を与えるかは、すべて実定法の定めによって決せられるのであり、このことは成文法主義を採る我が国の法制上当然のことである。けだし、単に権利者に対して、静的に権利の内容たる利益を享受すべき法的地位を保護するにとどまらず、他の者に対する積極的な物権的請求権類似の妨害排除ないし予防の権能をもち、排他性、絶対性を備えた権利が認められることになれば、権利者の側からみれば権利保護の方法として極めて強力かつ有効な手段が与えられることにはなるが、それは、反面、他の者の権利ないし行動の自由を制限するものであり、請求を受ける相手方の立場からすると、本来自由であるべき行為について裁判所から直接に規制を命ぜられることになるから、相手方の受ける影響は、事後的に損害賠償として金員の支払を命ぜられることによって間接的にその行為の規制を余儀なくされる場合に比較して、はるかに大きいものになることが明らかだからである。したがって、人格権は実定法上の根拠を欠くゆえに、妨害排除、予防請求権の根拠たり得ないものというべきである。
(2) そればかりでなく、一口に人格権といっても、極めて多義的な概念であって、その内容は全く不明確といわざるを得ず、このような不明確な概念にたやすく権利性を承認することはできない。すなわち、人格権の内容及び範囲(権利の内包及び外延)についての理解はまちまちであり、これを一義的、明確にとらえることは到底できないのである。
例えば、原告らが主張する「人間として平穏、安全に生活する権利」、「生命、身体への安全性の意識」及び「健康な生活を営む権利」に至っては、いずれもそれ自体、抽象的に表現された、誠に漠たるものであり、それぞれの概念や利益の実体的内容や範囲、限界は具体的には全く明確でない。その理解の仕方は様々であって、主観的、心理的な判断に左右されざるを得ない内容であるというほかなく、このような曖昧な利益ないし心情を保護するために排他性を伴った物権類似の権利を認めることは到底できない。
(3) 仮に、一定の場合に排他的権利としての人格権に基づく差止め請求権を是認するとしても、
① 問題となる人格的利益が、生命、身体、名誉と同等の極めて重大な保護法益であること
② これらの法益が客観的に侵害される強度の蓋然性があること
③ 予め侵害を予防する必要性、急迫性
の三つが必要というべきである。
法益侵害のおそれは、当事者の主観によるものではなく、客観的なものでなければならないとともに、具体的であることを要し、かつ、予め侵害を予防する必要のある強度の蓋然性と急迫性が存在することを要するのである。そして、この点についての主張立証責任が妨害の予防を求める原告らの側にあることはいうまでもない。
(4) 本件において原告らのいう「健康」については、これを身体の客観的状態を表すものとみれば、前記①の要件を満たすものといえないこともないが、この「健康」にしろ、さかのぼって「生命、身体」にしろ、原告らは、これらが被告理化学研究所が行う組換えDNA実験によってどのような因果関係の下にどのような態様で侵害されるのかを具体的に主張しないから、前記②、③の要件を欠くことは明らかである。
次に、「平穏な生活」や「生命、身体への安全性の意識」については、その内容が極めて不明確なうえ、主観的、心理的な概念であって、侵害の有無についての客観的認定は不可能であり、前記のいずれの要件にも該当しないことは明白である。また、原告らに僅かでも不安を与える行為が原則的に違法と評価されるというのでは、今日の社会生活の実態に適合しないことはいうまでもない。そして、このような主観的心情ともいうべき要素を人格権の内容としてとらえるとすれば、裁判所が本件施設及びそこでの実験活動の安全性について客観的に確証があると判断しても、原告らがその主観においてなお不安を抱いていることが認められれば、人格権侵害を肯定することにもなりかねないのであって、このような見解が妥当といえないことは明らかである。
4 損害賠償請求の問題点
原告らは、被告らが本件各実験を安全性の確保なく行ったことで原告らの安全性の意識が侵害され、被告らの共同不法行為が成立するとして慰謝料を請求する。
しかし、これについても、不法行為の要件である違法性、権利侵害、過失及び損害の発生についての主張は不適切で、主張自体失当というべきである。
特に、原告らに発生したとする損害は、単に不安感を醸成したというにすぎず、それ以上のものではない。このような名誉に関しない主観的な感情を害したことで、原告らに法律上慰謝すべき精神的な損害が発生したと解する余地はない。
第三当裁判所の判断
一被告理化学研究所の本案前の主張について
1 請求の特定
被告理化学研究所は、原告らが、本件P4実験室をP4レベルの組換えDNA実験に使用してはならないと請求する点について、右にいう「P4レベル」とは組換えDNA実験における物理的封じ込めの程度を示すもので、実験自体を特定する概念ではないから、右請求はその内容が特定されていないと主張するのであるが、訴訟上の給付請求は、一定の給付の種類、内容及び範囲を特定して作為又は不作為を求めるものであれば足りるのであって、本件は、実験の禁止を求める不作為の請求であるが、原告らが禁止を求める実験として「P4レベルの組換えDNA実験」というのは、「本件P4実験室を利用してP4レベルの物理的封じ込めでなされる組換えDNA実験」を指すもので、一定の施設を利用して行われる実験の内容と種類を特定しているものと解されるのであるから、後述のように本件P4実験室がP4レベルの物理的封じ込め機能を備えている結果、本件P4実験室で行われる組換えDNA実験はすべて包括的にこれに該当することになったとしても、訴訟上の請求としてその特定に欠けるところはないものというべきである。
2 将来の給付請求の必要性
また、被告理化学研究所は、原告らの右請求は、将来にわたって本件P4実験室をP4レベルの組換えDNA実験に使用してはならないというものであり、そのような将来にわたる給付請求にかかる部分については、予めその請求をする必要がないと主張するが、本件は、権利の侵害予防請求権の行使として一定の行為の現在から将来までの包括的禁止を求める請求であって、現在の請求権による給付を求める訴えであり、右の予防請求権について現在争いがある限り、その給付請求をする必要性の要件を満たすものであり、本件請求の内容が将来にわたる無期限の実験の禁止を請求するものであるということだけで不適法となるもではない。
二被告理化学研究所及び本件施設の概要について
1 証拠(<書証番号略>)によれば、被告理化学研究所は、昭和三三年一〇月二一日理化学研究所法に基づいて、「科学技術(人文科学のみに係るものを除く。)に関する試験研究を総合的に行い、及びその成果を普及する」ことを目的として設立された特殊法人で、理事長は、内閣総理大臣によって任命され、資本金の二分の一以上を政府が保有し、毎事業年度の事業計画及び財務諸表は、内閣総理大臣の認可又は承認を受けて運営されていること、その活動は四七の研究室と二つの研究グループを中心に、物理、工学、化学及びライフサイエンスの分野に及んでいるが、本件施設は、その内の遺伝子に関する科学技術研究推進のセンターとして位置づけられ、安全評価研究室など遺伝子科学技術に関する六つの研究室と、組換えDNA研究に必要な実験材料である動植物細胞材料及び遺伝子材料並びにこれらに関する情報の収集、保存、提供や材料の品質確保のための検査、検定などを目的とするジーンバンク室及びライフサイエンス推進部から構成され、組換えDNA実験の安全性評価に関する研究や遺伝子の操作技術を用いた先導的、基盤的研究などが行われていることが認められる。
2 本件施設の概要は第二、二3に記載のとおりであり、その組換えDNA実験棟には、P4実験室及びP3実験室が各二室、P2実験室が四室、P1実験室が三室あり、証拠(<書証番号略>、証人井川洋二)によれば、被告理化学研究所では、これらの実験室を利用して、各種の組換えDNA実験が行われているが、実験に当たっては、その安全性を確保するために、前記実験指針の定めに従っているほか、被告理化学研究所においても前記安全管理規程を定め、これによっていることが認められる。
三実験指針について
1 実験指針の目的及び内容
前記実験指針の目的及び内容についてみると、証拠(<書証番号略>)によれば、次のようなものであることが認められる。
(一) 実験指針の目的は、組換えDNA研究の推進を図るため、組換えDNA実験の安全を確保するために必要な基本要件を示すことにあり、その安全確保は、病原微生物学実験室で一般に用いられる標準的な実験方法を基本とし、実験の安全度評価に応じて、物理的封じ込め及び生物学的封じ込めの二種の封じ込めの方法を適切に組み合わせて計画、実験するものとされ、第2章で封じ込めの方法を物理的封じ込めと生物学的封じ込めに分けて、第3章で実験の安全度評価に応じた封じ込め方法の基準、第4章で組換え体の取扱い、第5章で教育訓練及び健康管理、第6章で実験の安全を確保するための組織について、それぞれ規定している。
(二) 封じ込めの方法について
第2章においては、封じ込めの方法として、物理的封じ込め及び生物学的封じ込めの目的、レベル及び方法が次のとおり規定されている。
(1) 物理的封じ込め
物理的封じ込めは、組換え体を施設、設備内に閉じ込めることにより、実験従事者その他のものへの伝播及び外界への拡散を防止することを目的とし、二〇リットル以下の培養規模で行う通常の実験にかかる物理的封じ込めについては、P1からP4までの四つのレベルに区分され、それぞれについて、封じ込めの設備、実験室の設計、実験実施要領が定められている。
本件で問題とされるP4レベルは、最も封じ込めの基準が厳しいもので、その内容は以下のとおりである。
ア 封じ込めの設備
① 組換え体を取り扱うためのクラスⅢの安全キャビネット(グローブボックス)を設置すること。ただし、特別な実験区画において、生命維持装置によって換気され、かつ、陽圧に維持されている上下続きの実験着を着用する場合には、安全キャビネットはクラスⅠ又はクラスⅡのもので代えることができる。
② グローブボックスの設置に際しては、定期検査、HEPAフィルターの交換、ホルムアルデヒドによる燻蒸等がグローブボックスを移動しないで実施できるよう配慮すること。また、グローブボックスは、設置直後及び定期的に年一回、次の検査を行うこと。ただし、実験室内へ排気するグローブボックスについては年二回とする。
a 風速、風量試験
b 密閉度試験
c HEPAフィルター性能試験<省略>
イ 実験室の設計
① 実験専用の建物又は建物内において他と明確に区画された一画を実験区域とし(実験区域とは、出入りを管理するための前室によって他の区域から隔離された実験室、廊下等からなる区域をいう。)、当該区域に実験従事者以外の者が近づくことを制限できるようにすること。
② 前室は同時には開かない扉を前後に持ち、更衣室及びシャワー室を備えること。
③ 更衣室を経由することなく、試料その他の物品を実験区域に搬入しようとする場合は、紫外線が照射され、かつ、同時には開かない扉を前後に持つ通り抜け式の前房を通すこと。
④ 実験区域の床、壁及び天井は容易に洗浄及び燻蒸ができ、昆虫、げっ歯類等の侵入を防ぐ構造であるとともに、蒸気状態の消毒剤を恒圧で、全体として適切に閉じ込め得るものであること。ただし、このことは必ずしも気密であることを意味するものではない。
⑤ 実験室及び実験区域の主な出口には、足若しくはひじで、又は自動的に操作できる手洗い装置を設けること。
⑥ 実験区域の扉は、自動的に閉じる構造とすること。
⑦ 中央真空系統を設置する場合は、実験区域専用のものとし、各使用場所及び点検コックのできるだけ近くにHEPAフィルターを配備すること。このHEPAフィルターはそのままで消毒可能であり、また交換ができるように設置すること。
⑧ 実験区域に供給される水、ガス等の配管には逆流を防ぐ装置を備えること。
⑨ 実験区域から搬出する物品を滅菌するために、両方が同時には開かない扉を前後に持つ通り抜け式の高圧滅菌器を備えること。
⑩ 実験区域から搬出する加熱滅菌が不適切な試料その他の物品を滅菌するために、消毒液の入ったくぐり抜け式の浸漬槽又は両方が同時には開かない扉を前後に持つ通り抜け式の燻蒸消毒室を備えること。
⑪ 実験区域専用の給排気装置を備えること。この装置は、外部から空気が流入する場合、次第に危険度の高くなる区域へと流れて行くように、圧力差を維持するとともに、空気の逆流を防ぐように設計すること。また、装置の誤動作を知らせる警報装置を付けること。
⑫ 個々の実験室での空気の再循環は、HEPAフィルターで濾過すること。
⑬ 実験区域からの排気は、HEPAフィルターで濾過した後、近くにある建物及び空気取入口を避けて拡散するように排出すること。
このHEPAフィルターはそのままで消毒可能であり、また、交換後性能検査ができるように設置すること。
⑭ グローブボックスからの処理された排気は戸外へ排出すること。
クラスⅠ又はクラスⅡの安全キャビネットからの処理された排気は実験室内へ排出することができる。もし、これらの排気が実験区域専用の排気装置を通じて排出される場合には、安全キャビネット又は実験区域の換気系の空気バランスを乱さないように結合すること。
⑮ 実験区域内に設けられる特別な実験区画は、次の要件を満たすこと。
a 生命維持装置は警報装置及び緊急用の空気タンクを備えること。
b 入口に気密扉によるエアロックを設けること。
c 着衣に付着した汚染物を退去時に除去するための化学薬品シャワー室を設けること。
d 当該区域からの排気は、HEPAフィルターで二段濾過すること。
e 安全のため、排気用換気装置を二系統とすること。
f 緊急用の動力源、灯火及び通信装置を備えること。
g 当該区画以外の実験区域に対し、常に陰圧を保持すること。
h 当該区画以外へ排出する廃棄物を滅菌するための高圧滅菌器を備えること。
ウ 実験実施要領
① 実験中、実験室の扉は閉じておくこと。
② 実験台及びグローブボックスは、毎日、実験終了後消毒すること。また、実験中汚染が生じた場合には、直ちに消毒すること。
③ 実験に係る生物に由来するすべての廃棄物は、廃棄前に消毒すること。その他の汚染された機器等は、洗浄、再使用及び廃棄の前に消毒すること。
④ 機械的ピペットを使用すること。
⑤ 実験区域内での飲食、喫煙及び食品の保存はしないこと。
⑥ 組換え体を取り扱った後、及び実験区域を出るときは手を洗うこと。
⑦ すべての操作においてエアロゾルの発生を最小限にするよう注意を払うこと。例えば、熱した接種用白金耳や接種針を培地中に挿入したり、はねるほど強くあぶったり、ピペットや注射器から液体を強く噴出させる等の行為は避けること。
⑧ グローブボックス及び実験区域から生物試料を生きたままの状態で搬出する場合には、堅固で洩れのない容器に入れた後、浸漬槽又は燻蒸消毒室を通すこと。グローブボックスに搬入する場合も同様とする。
⑨ グローブボックス及び実験区域から試料又は物品を搬出する場合(⑧の場合を除く。)には、高圧滅菌器を通すこととし、高温や蒸気によってこわされるおそれのあるものについて、浸漬槽又は燻蒸消毒室を通すこと。グローブボックスに搬入する場合も同様とする。
⑩ 実験区域の昆虫、げっ歯類等の防除をすること。
⑪ 他の方法がある場合には、注射器の使用は避けること。
⑫ 実験又はその安全確認に必要な者以外の者を実験区域に入れないこと。
⑬ 実験区域への出入は前室を通じて行い、出入に際してはシャワーを浴びること。
⑭ 実験区域では、下着、ズボン、シャツ、作業衣、靴、頭巾、手袋等からなる完全な実験着を着用し、実験区域から出るときは、シャワー室に入る前にこれらを脱ぎ、収集箱に収めること。
⑮ 実験区域のすべての扉及び組換え体を保管する冷凍庫、冷蔵庫等には、国際的に使用されている生物的危険表示を掲げること。
⑯ 実験区域は常に整理し、清潔に保ち、実験に関係のないものは、置かないこと。
⑰ 安全キャビネットのHEPAフィルターについては、その交換直前及び定期交換時並びに実験内容の変更時に、安全キャビネットを密閉し、一〇g/m3のホルムアルデヒドにより燻蒸した後約一時間放置し、汚染を除去すること。
⑱ 安全キャビネット及び実験室流しからの廃液は加熱滅菌すること。シャワー及び手洗い装置からの排水は化学処理により消毒すること。
⑲ 実験中、当該実験室内では、封じ込めレベルがP3以下でよいとされる他の実験を同時に実施しないこと。
⑳ その他実験責任者の定める事項を遵守すること。
(2) 生物学的封じ込め
ア B1レベル
自然条件下での生存能力が低い宿主と宿主依存性が高く他の細胞に移行しにくいベクターを組み合わせて用いることにより組換え体の環境への伝播、拡散を防止できると認められる宿主―ベクター系又は遺伝学的及び生物学的並びに自然条件下での生態学的挙動に基づいて人類等に対する生物学的安全性が高いと認められる宿主―ベクター系については、その生物学的封じ込めのレベルをB1レベルとし、前記第二、二4(二)(1)記載の四種類の宿主―ベクター系がB1レベルに属するものとされている。
イ B2レベル
B1レベルの条件を満たし、かつ、自然条件下での生存能力が特に低い宿主と宿主依存性が特に高いベクターを組み合わせて用いることにより、組換え体の環境への伝播、拡散を防止できると認められる宿主―ベクター系については、その生物学的封じ込めのレベルをB2レベルとし、大腸菌K12株の特定株と、宿主依存性が特に高く、他の生細胞への伝達性が極めて低いベクター系との四三通りの組合せが示されている。
(三) 封じ込め方法選択の基準
第3章では、実験の安全度評価に応じた封じ込め方法の基準について規定している。
実験の実施に当たっては、実験計画の内容について安全度評価を行い、その評価に応じた封じ込めの方法を選択するものとし、実験の安全は、病原微生物学実験室で一般に用いられる標準的な実験方法を基本とし、選定した封じ込めの方法を適用することによって確保することとされている。
そして、実験計画の安全度は、ベクターに挿入しようとするDNAが宿主に移入された場合に、どのような生物学的性質を新たに宿主に与え得るかによって評価されるが、その評価に当たっては、病原性、毒素産生能、寄生性、定着性、発癌性、薬剤耐性、代謝系への影響、生態系への影響などの程度が総合的に判断される。
そのうえで、封じ込め方法の基準として、用いるDNA供与体に応じて必要な物理的封じ込めのレベルが表によりP1からP3まで具体的に示され、一部については、基準が示されていない実験として、次のように国の指導の下に行うものとしている。
(四) 基準外実験と国の指導
基準が示されていない実験については、その必要性に応じ、安全性を確認しつつ順次基準の追加を図ることとし、基準の追加に係る安全性評価のための実験その他特に科学的知見の増大を目的とする実験が必要な場合には、国の指導の下に行うものとされている。
右の基準が示されていない実験としては、前記表により物理的封じ込めのレベルが示されているDNA供与体以外のものをDNA供与体とする実験、前記認定された宿主―ベクター系以外の宿主―ベクター系を使用する実験、脊椎動物に対する蛋白性毒素産生能を有する遺伝子のクローン化実験、実験動植物個体への組換え体の接種を含む実験、大量培養実験、組換え体の自然界への散布を含む実験などが掲げられている。
(五) 組換え体の取扱いと実験関係者の責務
第4章では、組換え体の取扱いについて、組換え体の増殖実験、保管及び運搬に関する基本的事項が示されており、組換え体を含む材料は、組換え体であることを明示して、その組換え体を用いる実験に関して定められた物理的封じ込め方法の基準の条件を満たす実験室、実験区域又は大量培養実験区域に安全に保管すること、これを実験室等の外に運搬する場合には、組換え体を含む材料をびん又は缶に入れ、内容品が漏出しないように密封したうえ、外部の圧力に耐える堅固な箱に納め、箱には、万一容器が破損しても完全に漏出物を吸収するよう綿その他の柔軟な物をつめることなどが決められている。
第5章では、教育訓練及び健康管理について、実験責任者及び試験研究機関の長は、実験開始前に実験従事者に指針を熟知させ、危険度に応じた微生物安全取扱い技術、物理的封じ込めに関する知識及び技術、生物学的封じ込めに関する知識及び技術、実施しようとする実験の危険度に関する知識、事故発生の場合の措置に関する知識についての教育訓練を実施すること、また、試験研究機関の長は実験の開始前及び開始後定期的に健康診断を行い、感染或いは汚染のおそれのあるような場合は健康診断や調査のほか必要な措置をとらねばならないことなどを定めるとともに、実験従事者本人にも健康管理と変調を来した場合の報告義務を課している。
第6章では、実験の安全を確保するための組織として、実験責任者、試験研究機関の長、安全委員会及び安全主任者について規定し、その責任と任務、権限等に関する事項が定められている。
2 実験指針による安全確保の有効性
ところで、証拠(<書証番号略>、証人井川洋二、弁論の全趣旨)によれば、組換えDNA実験の安全確保のためのガイドラインは、一九七六年にアメリカ合衆国の国立衛生研究所(NIH)においてまとめられたものが最初で、その後、各国ともこれを基にしてそれぞれ実験の実施についてのガイドラインを定めており、我が国でも基本的には右アメリカ合衆国のガイドラインを踏襲しながら、我が国独自の検討結果をも加えて前記内容の実験指針を定めたこと、これらのガイドラインにおいては、組換えDNA実験の安全性を確保する方法として、組換え体等を実験室の外に出さないための物理的封じ込めと、実験に使用するDNA供与体や組換えたDNAを導入する宿主―ベクター系を一定のものに制限しての生物学的封じ込めの組合せによる方法が一般的に採用されていること、また組換えDNA実験が行われ始めた当初は、病原微生物の遺伝子DNAを多くの研究者、実験者が扱うことへの危惧から、ガイドラインの内容は相当に厳しいものであったが、一九七九年にアメリカ合衆国の前記国立衛生研究所においてポリオーマウイルスに関する実験レポートが発表され、それによればポリオーマウイルスのDNAの組換えによって、もともとなかった病原性が新たに出現するようなことはなく、また、DNAを組換えたウイルスの感染力も、そのウイルスが本来有していた感染力に比べれば非常に弱いもので、組換えDNA実験が当初危惧されていたよりもはるかに安全性の高いものであることが分かり、その他の組換えDNA実験やその安全性実験などの結果も加わって、その後アメリカ合衆国では度々ガイドラインの修正がなされ、制限が緩和されていること、我が国でも同様に宿主―ベクター系の枠の拡大という形で漸次実験指針の内容が緩和されてきているが、BS1(枯草菌Mar-burg168株)について自然環境下では生存しにくいように二つの余計な栄養要求性を加えているなど、内容的にはアメリカ合衆国のガイドラインよりも一段厳しいものとなっていることがそれぞれ認められる。
そして、我が国の実験指針においては、前記認定のように、封じ込めの方法について詳細な規定が設けられており、例えばP4レベルの物理的封じ込めに関する部分についてみても、組換え体等が実験従事者に感染したり、実験装置や実験室、実験区域から漏出しないように、その管理や取扱い、実験の実施要領、そして実験装置、実験室及び実験区域の密閉、消毒、滅菌、排気からの除菌、排水の滅菌消毒などについて、前述のように詳細に規定され、極めて厳重な対策、対応が要求されているところでおり、また生物学的封じ込めの面においても、前記証人井川洋二の証言によれば、組換えDNA分子を導入した宿主となる生細胞が自然環境下では生存しえないようにすることと、組換えDNA分子そのものの他の細胞への伝達性を失わせるという二つの観点から、DNA供与体や宿主―ベクター系の安全性について十分な検討が加えられ、それぞれの封じ込めのレベルが決められていることが認められるのである。
以上によれば、我が国の実験指針が定める組換えDNA実験の安全確保の方法、内容は、決して特異なものではなく、一般的に妥当なものとして採用されているということができ、むしろ内容的にはアメリカ合衆国のガイドラインなどに比べると厳しい面もあり、P4レベルでの実験を含め、この実験指針の定めに従って組換えDNA実験が行われるかぎりは、その物理的封じ込めと生物学的封じ込めとの組合せによって、組換え体等の漏出や外界への伝播、拡散のおそれはなく、その安全は確保されるといってよい。
四本件施設の組換えDNA実験棟、本件P4実験室の概要及び安全管理の方法について
1 本件施設の組換え実験棟、本件P4実験室の設備の実際
前記実験指針の内容との比較検討のために、本件施設における組換えDNA実験棟、なかでも本件P4実験室の設備等の実際についてみるに、証拠(<書証番号略>、証人井川洋二、弁論の全趣旨)によれば、次のとおりであることが認められる。
(一) 組換えDNA実験棟は、本件施設の敷地のほぼ中央に位置する地上二階の鉄筋コンクリート造の建物で、建築構造は柱構造ではなく、原子力施設で一般に採用されている耐震性の強い壁構造が採用され、実験棟の一階は別紙図面(一)記載のように、中央にP4実験室が二室とこれに付帯する前室等、奥にP3実験室があり、この四室の実験室の両脇に廊下を挾んでP2実験室が四室、低温室、機器測定室、電子顕微鏡室等のサポート室、P4実験室の手前には出入りのためのロッカー室、放射性同位元素にかかる汚染検査室、中央監視室、管理室等が配置され、また実験棟の南西には高圧滅菌棟が付帯して存する。
(二) 実験棟におけるP4実験区域は、P4実験室及びその前室としての更衣室二室並びに両更衣室に挾まれたシャワー室から成っており、実験室への出入りは外側の更衣室(IDカード管理システムにより登録された者でなければ入室できない仕組みとなっている。)、シャワー室、更に内側の更衣室を通らねばならず、これらの扉はすべて気密扉で、前後の扉が同時に開かないインターロックシステムとなっている。またこれらの前室にはいずれも動体感知器と監禁警報発報用押釦が設置され、それぞれインターロックシステムと連動し、実験者等が入室している更衣室等の扉は通常外側から開けることはできないようになっており、内側の更衣室には専用の実験衣等を搬出するための壁貫通型の高圧滅菌器が設けられている。
(三) P4実験室内にはグローブボックスが、地震の際にも倒れないようにアンカーボルトで床面に固定して設置されており、すべての実験はこのグローブボックス内で行われ、実験操作はグローブボックスに装備されたゴム手袋により外から行う仕組みになっている。また、グローブボックスは密閉式で、実験室内には作業用のグローブボックスから実験に必要な機器類(動物飼育ケージ、遠心機、インキュベーター等)を収めたグローブボックスまで、目的、仕様の異なるものが横に設置され、実験材料等の移動は各グローブボックスごとの隔壁シャッターを開けて行う構造になっている。
(四) グローブボックス内への実験材料等の搬入、搬出のために、グローブボックスに直結し、かつ前後の扉が同時に開かない構造の扉をもつ壁貫通型の高圧滅菌器、ガス滅菌器及び実験室内へ通じる浸漬槽(ダンクタンク)が設置されており、物品はその種類に応じてこれらの装置を通して搬入、搬出される。
グローブボックス内は、殺菌灯(紫外線照射)が設置されていて、ガス、水道設備はなく、従ってガスバーナーによる火災の危険もなく、グローブボックス内で使用された水、薬品及びこれらの廃液等については、容器に回収し、高圧滅菌器を通じて滅菌後グローブボックス外へ出す構造になっており、グローブボックスから直接排水されない方式がとられている。また、実験室外から実験室に筆記用具等を搬入するために、前後の扉が同時に開かない構造のパスボックスを設置してあるが、実験のデータ等は実験室内に設置してある電送設備(FAX)により電送される。
(五) 実験区域の扉は自動的に閉じる構造になっており、実験室や実験区域の出口には、足若しくはひじで操作できる手洗い装置が設けられている。
(六) P4実験区域には専用の給気設備として、外気よりシャワー室、内側の更衣室及び実験室へ供給する設備と実験室内空気をグローブボックスへ供給する設備とがあり、実験室等に供給する給気設備は、実験棟屋上にある給気塔により取り入れた空気を送風機により供給するが、給気管には逆流防止装置が付けられ、送風機は同じ性能を有する主送風機と予備送風機の二台が実験棟二機械室内に設置されており、実験室内の空気の清浄を保つために、送風機後段に中性能フィルター及びHEPAフィルター各一段が組み込まれた空気浄化装置が置かれている。
グローブボックスへの給気設備は、各グローブボックスの上部にHEPAフィルターを二段備えて、実験室内より給気される。
(七) 排気設備としては、実験室、内側の更衣室及びシャワー室の排気系とグローブボックス内の排気系とがあり、両系統とも、排風機、排気浄化装置、排気ダクト及び排気塔で構成され、排風機、排気浄化装置は同じ性能を有する主と予備の二台が設置されている。
実験室系の排気浄化装置の内部には、中性能フィルター一段、HEPAフィルター二段、活性炭フィルター一段が、グローブボックス系の排気については、グローブボックスの上部にHEPAフィルター二段がそれぞれ設置され、さらに、機械室にある排気浄化装置にはHEPAフィルターと活性炭フィルターが各一段設置してある。
(八) 右のような給排気装置及び陰圧調整設備により、実験区域の空気は危険度の高い方に流れるように維持されており、陰圧度は、外気に対し、P4実験区域外の廊下等が水圧計でマイナス二〜三ミリメートル、P4実験区域がマイナス五ミリメートル、グローブボックス内はマイナス二〇ミリメートルに保持されている。
気密扉、壁、天井にはセラミックボードが張られ、陰圧保持の効果もある。
陰圧の確認は、P4実験室内の警報ランプとグローブボックス内に設置してある圧力ゲージにより行えるほか、中央監視室のモニターによることもでき、万一陰圧のバランスが乱れた場合は、警報装置が作動し、陰圧調整設備により自動的に陰圧を保つようコントロールされている。
(九) P4実験区域への給水は、シャワー室用及び手洗い用の水と高圧滅菌器への給水に限られ、グローブボックス内には給水設備はない。
手洗い、シャワーの排水については、一般外気に触れることなく、配管を通して高圧滅菌器棟内の高圧滅菌タンクに導入され、高圧蒸気滅菌される。
また、滅菌の確認のため、高圧滅菌棟内に滅菌後の排水の検査を外気に触れることなく行うためのグローブボックスを備えている。さらに、薬液滅菌槽が設置されており、ここで薬液滅菌した後に排出される。
(一〇) 実験区域に供給される水、ガス等の配管には逆流を防ぐ装置が設けられており、また、各実験設備、給排気設備及び給排水設備の動力はいずれも電気であるが、停電時に対処するための動力源として、無瞬断装置と非常用ガスタービン発電機を備えている。
(一一) 実験棟及びP4実験区域等への出入りは、すべてIDカード方式によりチェックされ、そのためのカードリーダーを各出入口に設けてある。その情報はすべて中央監視室でモニターされる。
中央監視室では、そのほかに在室の有無、フィルターの差圧、室内等の陰圧度等が常時把握でき、異常があればその情報を得ることができる。
管理室では、モニターテレビによって実験室内部の状況が把握でき、火災警報装置、防火扉等の操作盤、非常用放送システムが設置されている。
2 組換えDNA実験の安全管理の方法
次いで、本件施設において組換えDNA実験を行う際の安全管理の方法についてみるに、証拠(<書証番号略>、証人井川洋二、弁論の全趣旨)によれば、本件施設での組換えDNA実験の実施に当たっては、被告理化学研究所においては、前記実験指針の実験実施要領等の定めに従うものとするほかに、組換えDNA実験の計画及び実施に必要な事項につき前記安全管理規程を定め、これに依拠することによって実験の安全かつ適切な実施を図るものとしており、その内容は概ね次のようなものであることが認められる。
(一) 安全管理組織
(1) 本件施設における実験の安全を確保するための組織(安全管理組織)は、理事長、研究センター所長、ライフサイエンス推進部長、同部管理課長、安全主任者及びその代理者、実験責任者及び実験従事者、安全委員会で構成する。
(2) 本件施設における実験、研究支援業務及びその他の業務に係る安全確保に関する業務(安全管理業務)は理事長が総理し、その命を受けて研究センター所長が統括する。
(3) ライフサイエンス推進部管理課長は所長の命を受けて左記の各業務を行う。
①ないし⑩<省略>
(4) 理事長の諮問機関として、安全主任者一名、組換えDNA研究者二名、その他の研究者二名、職員等の健康、安全を担当する職員一名、理化学研究所外の学識経験者五名(つくば市の推薦する者四名、理化学研究所の推薦する者一名)で構成する組換えDNA実験安全委員会を設ける。
安全委員会は、理事長の諮問に応じて、左記の事項につき調査、審議して、また理事長に対し、助言又は勧告をする。必要に応じ、所長、管理課長、安全主任者及び実験責任者に対し、報告を求めることができる。
①ないし⑤<省略>
(5) 実験の安全確保に関し理事長を補佐するため安全主任者を置く。
安全主任者は、実験指針及び安全管理規程を熟知するとともに、生物災害の発生を防止するための知識及び技術並びにこれらを含む関連の知識及び技術に高度に習熟した者のうちから、理事長が任命する。
安全主任者は、安全委員会と十分連絡をとって、左記の任務を行い、必要な事項については安全委員会に報告しなければならない。
①ないし③<省略>
(6) 実験責任者は、実験指針及び安全管理規程を熟知するとともに、生物災害の発生を防止するための知識及び技術並びにこれらを含む関連の知識及び技術に習熟した者であって、所長の推薦する職員のうちから安全委員会の意見を聴いて、個々の実験ごとに理事長が指名する。
実験責任者は、個々の実験計画の遂行に責任を負い、安全主任者と緊密な連絡をとり、当該実験全体の適切な管理、監督に当たらねばならない。
(7) 実験従事者は、実験責任者及び所長の推薦する者のうちから、個々の実験ごとに理事長が指名する。
実験従事者は、実験責任者の監督のもとに、実験指針及び安全管理規程を遵守するとともに、実験の安全な実施に努めねばならない。
(二) 実験実施の手続
(1) 本件施設において実験を行おうとする者は、所定の様式の組換えDNA実験承認申請書(<書証番号略>)を、またすでに承認された実験を変更しようとするときは実験計画変更申請書を、所長を通じて理事長に提出しなければならない。
当該実験が、実験指針に定めるP3又はP4レベルの実験であるときは、所定の様式の組換えDNA実験安全計画書(<書証番号略>)を、添付しなければならない。
右組換えDNA実験承認申請書及び組換えDNA実験安全計画には、それぞれ第二、五被告らの主張の1(五)(4)に掲げた事項について記載することとされている。
(2) 理事長は、右申請又は変更申請書の提出があったときは、安全委員会の審査を経て、これに承認を与え、又は与えないものとする。ただし、実験指針第3章第3節に定める実験(基準外実験)の申請書等が提出され、これに承認を与えようとする場合は、あらかじめ国の承認を受けなければならない。また、右承認を受けた実験については、国の指導のもとに、これを実施しなければならない。
(3) 実験責任者は、承認された実験期間は、所定の実験管理区域の標識及び次に掲げる事項を記載した表示を所定の場所に掲示しなければならない。
①ないし⑥<省略>
(4) 実験責任者及び実験従事者は、安全主任者の指導助言のもとに、当該実験に係る実験管理区域に関し、実験の開始前及び終了時に、又は必要があるときは随時、所要の点検を行い、実験の実施経過、実験機器及び実験設備の管理保全と併せ、実験実施状況等の記録票に記録、保存しなければならない。
(5) 実験責任者は、実験を終了し、又は中止したときは、すみやかに所長及び安全主任者に通知するとともに、安全主任者の指導助言のもとに、使用した機材の撤去、組換え体による汚染の除去その他の原状回復に必要な措置を遅滞なく講じなければならない。
所長は、実験責任者が原状回復について講じた措置を管理課長に確認させ、管理課長はその結果を記録、保存しなければならない。
(6) 実験責任者は、原状回復の措置及びその確認が終了したときは、実験終了報告書及び年度末には実験経過報告書を、所長を通じて理事長に提出する。
また、理事長、所長、安全委員会及び安全主任者から、実験に関して報告を求められたときは、すみやかに文書をもって報告しなければならない。
(三) 実験管理区域
(1) 実験管理区域の設定と解除<省略>
(2) 実験管理区域への立入者の管理<省略>
(3) 実験管理区域での制限<省略>
(四) 組換え体の保管、運搬及び廃棄
(1) 組換え体の保管
実験責任者は、組換え体を保管しようとするときは、保管届を所長に提出し、所長は、安全主任者の指導助言のもとに、実験指針に定める物理的封じ込めのレベルに応じて、保管場所を指定しなければならない。
実験責任者は、組換え体を堅固で漏れのない容器に収め、組換え体であることを明示して保管し、保管状況を毎年一回点検し、その結果を所長及び安全主任者に、所長は理事長及び安全委員会に報告しなければならない。
(2) 組換え体の運搬
実験責任者は、組換え体を実験管理区域に搬入又は同区域から搬出しようとするときは、運搬願を提出し、理事長の承認を受けなければならない。
運搬は、常時立入者、随時立入者及び安全主任者の意見を聴いて所長が組換え体を安全に運搬できると認める者のほかは、行ってはならない。
組換え体は、びん又は缶に密封したうえ、外部の圧力に耐える堅固な箱に納め、箱の内部には吸収材をつめ、箱の表面には「取扱い注意」の朱文字を明記し、組換え体を運搬する者は、安全主任者の指導助言のもとに、組換え体を収納した容器の表面をあらかじめ消毒又は滅菌しなければならない。
(3) 組換え体等の廃棄
組換え体等の廃棄は、常時立入者及び随時立入者のほかは行ってはならず、これらの者が組換え体等の廃棄をしようとするときは、実験指針の定める物理的封じ込めのレベルに応じて、安全主任者の指導助言のもとに、事前に消毒又は滅菌をし、これを行った物を、その性状に応じて分別、梱包し、所長の指定する場所に廃棄しなければならない。
所長は、組換え体等が廃棄されるときは、研究センター構内及び周辺環境に影響を及ぼさないように管理しなければならず、また管理課長は、所長の命を受けて、廃棄された物を適切に保管しなければならない。
(五) 安全施設等の運転及び管理
(1) 所長は、安全施設等の運転に当たっては、立入者の安全の確保を図るとともに、安全施設等の機能が正常に作動するよう管理しなければならない。
(2) 管理課長は、作業安全基準に従って、安全施設等の点検、整備等の管理を行い、また、実験管理区域に係る陰圧調整機能、電力需給状況等を常時監視するとともに、作業安全基準等に従って、点検、整備等の管理を行わなければならない。
(六) 排気及び排水の管理
(1) 所長は、研究センターから排出される実験に係る排気及び排水の処理に当たっては、作業者の安全確保を図るとともに、公害対策基本法、大気汚染防止法、水質汚濁防止法、茨城県研究学園都市下水道条例その他の関係法令を遵守し、環境の保全に努めなければならない。
(2) 所長は、実験に係る排気を処理する設備及び排水を処理する高圧滅菌設備等の運転に当たっては、機能が正常に作動するよう管理し、管理課長は、定期的及び必要に応じて随時、排気及び排水設備を検査して正常に作動していることを確認しなければならない。
(七) 教育訓練
(1) 一般教育訓練<省略>
(2) 実験実施前の教育訓練<省略>
(3) 特別教育訓練<省略>
(八) 健康管理
(1) 所長は、実験従事者等常時実験管理区域に立ち入る者に対して、実験開始前及び実験開始後は一年を超えない期間ごとに、健康診断を実施しなければならない。
また、P3又はP4レベルの実験管理区域に常時立ち入る者に対しては、実験開始前にその血清を採取し、これを実験終了後二年間以上保存しなければならない。
(2) 理事長は、実験管理区域への立入者が、組換え体を飲み込み、もしくは吸い込み、又はそのおそれがあるとき、組換え体により皮膚が汚染され、又はそのおそれがあるとき、組換え体により実験管理区域が著しく汚染された場合に、その場に居合わせたときには、直ちに健康診断を行い、その結果必要があると認めたときは、安全主任者の意見を聴いて必要な措置を講じなければならない。
(3) 理事長は、実験の計画に応じ、実験開始前に疾病の予防、治療の方策を検討し、必要に応じて抗生物質、ワクチン、血清等の準備を行うとともに、実験開始後は、実験管理区域に常時立ち入る者に対し、六月を超えない期間ごとに健康診断を実施しなければならない。
(4) 実験従事者等常時実験管理区域に立ち入る者は、日常生活において自ら健康管理を行い、健康保持に努めるとともに、健康に変調を来したときなどには、その旨を所長を通じて理事長に報告しなければならない。
(九) 事故及び災害の対策など
(1) 所長は、理事長の命を受けて、組換え体の盗難及び紛失、安全施設等の故障、組換え体による人体の汚染並びに組換え体による施設及び設備の著しい汚染等の事態並びに地震、火災等の事態の発生に備え、要員の確保、警報装置の整備及び点検、通報連絡の系統の確立、救急機材の整備、医療機関の確保その他必要と認められる措置をあらかじめ講じておかなければならない。
(2) 事故若しくは災害が発生し、又は発生するおそれがあるときは、発見者は、直ちに所長に通報する等応急の措置を講じなければならず、所長は、安全主任者の指導助言のもとに、状況に応じて直ちに要員の配置、立入禁止区域の設定等応急の措置を講じなければならない。
(3) 所長は、右応急の措置について、理事長に報告するとともに、すみやかに関係官公署に通報し、理事長は、状況に応じ、安全主任者及び安全委員会の意見を聴いて、関係職員に命じ最善の措置を講じなければならない。
(4) 安全主任者は、実験指針若しくは安全管理規程に違反し、又はそのおそれのある実験が実施されているときは、すみやかに所長に通報するとともに、理事長に報告しなければならない。
報告を受けた理事長は、直ちに調査するとともに、実験指針又は安全管理規程に違反していることが明らかになった場合において、必要があると認めたときは、安全委員会の意見を聴いて、すみやかに実験の制限又は中止その他必要な措置を講じなければならない。
3 本件施設の実験指針の充足
以上によれば、本件施設の組換えDNA実験棟及び本件P4実験室の設計、構造、設備は、いずれの点においても実験指針が詳細に定めているところをすべて充足しており、また、本件施設における組換えDNA実験の実施に当たっては、実験指針における実験実施要領、組換え体の取扱い、教育訓練及び健康管理、実験の安全確保のための組織等についての定めを遵守すべきものとされ、その内容をさらに安全管理規程によってより具体的に定め、遺漏のないよう万全の配慮がなされていることが認められる。
したがって、本件P4実験室を使用して行う組換えDNA実験についても、実験指針に従ってその安全の確保が図られているものということができる。
五原告らが組換えDNA実験における安全確保の問題点として主張する点について
原告らは、封じ込めによる安全確保が不十分であり、また、社会的安全性の保証が欠如していると主張するので、以下、その主張するところに沿って検討する。
1 物理的封じ込めに関して
(一) HEPAフィルターによる漏出防止について
原告らは、99.97パーセント以上の捕集能力があるとされるHEPAフィルターの性能検査は、細菌について行われたものであるから、それよりも小さいウイルスはこれを通過してしまうおそれがあると主張するのであるが、証拠(<書証番号略>)によれば、HEPAフィルターは、グラスウールやアスベスト、セラミックなどの繊維で、繊維径が一ないし四ミクロンのものとサブミクロン(一ミクロ以下)のものとを有機性の接合剤でマット状に接合した濾材を、アコーディオン式に幾重にも折り畳み、そのひだの間隙を保持し濾材を補強するために、ひだの間にアルミニウム、クラフト紙、アスベスト、プラスチックなどでできた波形のセパレータを組み込んで作られていること、その捕集機構は、濾過及び濾材によるさえぎり、慣性による濾材への衝突付着、拡散による濾材繊維への接触付着、静電作用による付着、重力による沈降捕集の五つの原理に基づくものとされているが、一ミクロン以下の粒子については主として粒子自体のブラウン運動によって濾材繊維に付着すること(拡散)により捕集され、したがって、フィルターの濾材の気孔の大きさよりも小さい粒子でも捕集できること、また、ウイルスそのものは細菌に比べて小さいものの、空気中を浮遊、飛散するときにはエアロゾルに付着しており、ウイルスのみが単独で存在することは殆どないこと、HEPAフィルターの捕集効率については0.3ミクロン以上の粒子を99.97パーセント以上捕集できることが規格値とされているが、実際にはその捕集効率が最低と考えられている0.2ミクロン以下の粒子に対しても99.97パーセント以上の捕集効率を有しており、さらに、ウイルスと同程度の粒径が0.01ミクロン以下の超微小粒子については前記の拡散機構により捕集効率が一層増大すること、また、前述のとおり、P4実験室で用いられるグローブボックスにおいては排気はHEPAフィルターで二段濾過されることになっているが、このようなHEPAフィルターの二段使用によって総合的な捕集効率は極めて大きくなること、このようなHEPAフィルターからの漏出による事故はこれまで報告されていなことがそれぞれ認められるのであって、右各事実によれば原告らのいうような空気の出入りによるウイルスの漏出のおそれは認めることができない。また、原告らは規格外のHEPAフィルターが用いられるおそれがあるともいうが、そのようなおそれを認めるに足る具体的な証拠は存しない。
(二) 排水の滅菌処理による漏出防止について
原告らは、P4実験室からの排水の滅菌処理について、レトロウイルスや遺伝子という分子次元のものには有効でないと主張するが、証拠(<書証番号略>、証人井川洋二、弁論の全趣旨)によれば、本件P4実験室のグローブボックスからの廃液については、容器に回収したうえ、グローブボックスに接続した高圧滅菌器で高圧蒸気滅菌されてグローブボックス内に保管され、実験の終了時における実験室やグローブボックス内のホルマリン滅菌によって再度滅菌された後、検査により滅菌が確実になされたことが確認されてから、グローブボックスの外に出されること、本件P4実験施設内のシャワーや手洗いからの排水は、外気に触れることなく高圧滅菌棟内の高圧滅菌タンクに導入されて、高圧蒸気滅菌され、滅菌の確認後、さらに薬液滅菌槽で薬液滅菌されてから排出されること、右の各高圧蒸気滅菌はいずれも日本薬局方に定める基準、方法に従ってなされていることがそれぞれ認められるのであって、それにもかかわらずなお原告らの主張するような排水からのウイルスや組換え体などの漏出のおそれを窺わせるに足る証拠は何ら存しない。
(三) その他の方法による漏出のおそれとその防止方策について
原告らは、実験従事者の体内に遺伝子が紛れ込んで他に感染するおそれがあると主張するが、前述のとおり本件P4実験室ではすべての実験は密閉されたグローブボックスの中で行われるのであって、実験従事者が直接ウイルスや組換え体等の実験材料に触れることはあり得ず、同時に生物学的封じ込めの方法によって組換え体等の伝播性も奪われていることからして、その主張のようなおそれは認められない。
また、原告らは、実験施設が地震、事故、テロリズムなどで破壊された場合に組換え体等が漏出するおそれがあるとか、人為的ミスのおそれを主張する。しかし、地震については、前述のように組換えDNA実験棟は耐震性の強い設計、構造が採用されており、また、グローブボックスについても倒れることのないようにアンカーボルトで床面に固定するなどの方策がとられているのであって、地震による漏出のおそれがあるものとは認められないし、事故、テロリズム、人為的ミスに関しては、原告らはただ単に抽象的にそのおそれをいうばかりであるが、本件組換えDNA実験棟及びP4実験室においては、グローブボックス内にガス配管をしないことによって火災発生のおそれをなくしたり、中央監視室や管理室において異常の有無について常時監視し、火災警報装置や防火扉等の操作盤、非常用放送システムなどの設備を設け、また、予備の給排気装置や停電に備えて無瞬断装置や非常用ガスタービン発電機を設置するなど、事故その他人為的な異常事態に備えた様々な対策が講じられていることは前述したとおりである。
2 生物学的封じ込めに関して
原告らは、生物学的封じ込めの概念は、増殖等の生命活動をしないウイルスには妥当せず、これを生物学的に封じ込めることは不可能であると主張するのであるが、前述のように、実験指針における生物学的封じ込めの目的は、組換え体の環境への伝播、拡散の防止と組換え体の生物学的安全性を高めることにあり、組換え体を対象として考えられているものであるから、ウイルスに対する生物学的封じ込めの可能性を問題とするのは筋違いである。
もっとも、前記証人井川洋二の証言によれば、ウイルスについてもその伝播能を欠損させることによって生物学的安全性を高めることが可能であり、実際にも後述する本件各実験においてはその方法がとられていること、また、ウイルスによる組換えDNA分子についても、それ自体として感染できる機構をもっておらず、その感染性はウイルスに比べて非常に低いものであることが認められるうえ、組換え体については併せて自然環境下で生存、伝播できないような生物学的封じ込めの工夫が施されていること及び前述のように厳重な物理的封じ込めの方策が講じられていることに照らせば、ウイルスそのものに対する生物学的封じ込めの有効性が問題であるとしても、そのことによって格別その漏出や生物災害発生のおそれがあるものとはいえない。
3 実験指針に関して
(一) 宿主拡大による実験指針の緩和と安全確保
原告らは、実験指針の緩和に伴う宿主の拡大に関して、モロニーマウス白血病ウイルスの実験によって組換えDNA実験の安全性の検討が不十分であることが明らかになったにもかかわらず、科学的安全性の保証もなしになされたものであるとし、証人柴谷篤弘も、実験指針の緩和はそのための安全性の評価実験に基づかないものであり、また、そもそも組換えDNA実験の安全性を示したものとされる前記NIHのポリオーマウイルスに関する実験についても、再検討の必要がある旨証言しているのであるが、証拠(<書証番号略>、証人井川洋二、弁論の全趣旨)によれば、実験指針における認定宿主の拡大は、そのための様々な安全性評価実験及び各種の組換えDNA実験の蓄積の結果得られた科学的知見に基づいて検討されたうえで行われたものであること、右ポリオーマウイルスに関する実験の評価についても、組換えDNA分子をそのままで扱うかぎりにおいては、これを細胞内に組み込んでも病原性は現れず、ただ制限酵素を使ってポリオーマウイルスの遺伝子を切り離したり、遺伝子を連結して二量体を作ったりすると病原性が発現することがあるが、これらはいずれも故意にそのような操作をしなければ容易には起きない現象であることから、右実験は一般に組換えDNA実験の安全性を示すものと評価されていること、原告らが主張するモロニーマウス白血病ウイルスの実験についても、メチル化によって感染性が抑えられていたレトロウイルスDNAが、大腸菌に組換えられることによってメチル基が外れやすくなり、感染力が回復することがあるというものであるが、もともとのウイルスの感染性に比べればDNAの感染性は非常に低いものであり、また、これによって生物学的封じ込めの効果が否定されるものでもないことが認められるのであって、この点の原告らの主張も実験指針の定める安全確保の方法、内容を相当なものとする前記判断を左右するに足るものではない。
また、原告らは実験指針における認定宿主の拡大は、実験の申請、承認手続における安全性の審査を簡易なものとし、その結果実験の安全性に重大な影響がある旨主張するが、前述のとおり、そもそも認定宿主の拡大自体が、そのための様々な安全性評価実験及び各種の組換えDNA実験の蓄積の結果得られた科学的知見に基づいて検討のうえ、安全として認められたものであり、証拠(<書証番号略>、弁論の全趣旨)によれば、認定宿主を用いる場合であっても、DNA供与体によっては詳細な内容にわたる申請が必要とされていることが認められるのであって、この点の原告らの主張も理由がない。
(二) 物理的封じ込め緩和の影響
原告らは、物理的封じ込めの緩和を問題にするが、これは本件請求の対象であるP4レベルの封じ込めの基準をはずれたことを問題にするもので、判断の要を認めない。
(三) 基準外実験について
原告らは、本件P4実験室で行われる実験指針に基準が示されていない実験(基準外実験)は本来的に危険なものであり、たとえ国の指導の下に行われるとしても危険性に変わりはないと主張するが、証拠(<書証番号略>、証人井川洋二、弁論の全趣旨)によれば、実験指針及びその運用に関する定めにおいて、実験指針に基準が示されていない実験については、各試験研究機関の安全委員会の審査等だけでは足らず、当該実験の実施前に、実験の目的、概要や実験に用いるDNA供与体、宿主及びベクターについての詳細な内容(その内容は第二、五被告らの主張1(五)(3)に記載のとおり)、実験を行う施設等を明らかにした所定の様式による実験計画書を科学技術庁に提出し、科学技術会議ライフサイエンス部会の個別審査を受け、その後各試験研究機関の長の承認を経ることを要するものとされていること、実際の右ライフサイエンス部会の個別審査は、我が国における組換えDNA実験についての主だった専門家や研究者で構成されるDNA技術分科会でなされるが、その際実験の主体や実験担当者については各委員には知らされず、また、随時必要な調査をなしうること、そして、科学技術会議ライフサイエンス部会において、当該実験を基準の追加に係る安全性評価のための実験その他特に科学的知見の増大を目的とする実験として、国の指導の下に行うのが適当と認めたときには、安全性の確保の観点から封じ込めのレベルを指示するなどの指導が行われ、実験の結果については所定の様式によって報告が義務づけられていること、基準外実験の物理的封じ込めのレベルは、使用される宿主―ベクター系の宿主依存性(逆にいえば他の細胞への伝播性)や自然環境下での生存能力、或いは生物学的安全性の程度といった生物学的性質その他の事情に照らして、個々の実験ごとに安全度評価が検討されて決定されるもので、基準外実験がすべてP4レベルの物理的封じ込めで行われるわけではないこと、これまでに組換えDNA実験用のP4施設で行われた実験は我が国では本件各実験が初めてであるが、本件各実験のような安全性評価実験については過酷実験の側面を有する性質上、最大限の安全確保を図るという観点からより高度の封じ込めレベルが採用されることがそれぞれ認められるのであって、原告らの主張のように基準外実験であるからといって当然に危険性が高いというものではなく、また、その封じ込めレベルの決定に当たっては前述のように慎重な手続と審査を経、場合によっては科学技術会議ライフサイエンス部会による指導を受けるものとされているのであって、これまで見てきたような実験指針等が定める物理的封じ込め、生物学的封じ込めの内容などをも併せて勘案すると、基準外実験については、その危険性の程度が不明であるので、最も高い危険性を前提にして最高度の封じ込めによる生物災害防止の措置をとり、その安全の確保が図られているものということができる。
原告らが実験指針の規制力を問題にする点についても、前述のような組換えDNA実験実施の手続、国の指導の方法、内容等からして、これらが組織的な規制であることからすれば、原告らが主張するように、個々の実験従事者が先陣争いのような動機からその規制を逸脱する事態はないものといってよい。
4 社会的安全性について
原告らは、本件P4実験室におけるような高度の技術を要し、危険性を伴う実験を住宅区域で行うには住民の参加等が保証されていなければ、社会的安全性の保証がなく、当該実験は社会的に危険とされ、その実施は不法行為となるものである旨主張するところ、被告理化学研究所が本件施設の目的や社会的有用性、そこで行われている各種実験の内容等について周辺地域住民に情報を提供し、積極的な広報活動等を行うことが、住民の無用な不安感を除去し、その理解や協力を得るために適当であるとしても、原告らが主張するような意味での住民参加等の保証がなければ、ただちに本件P4実験室における組換えDNA実験の実施が社会的安全性の保証を欠くことになって、法律的に違法と評価され、これが当然に不法行為となるとする理由はなく、なお、証拠(<書証番号略>、証人井川洋二)によると、本件施設の建設に当たっては、被告理化学研究所側の者が付近住民らの要望に応じて説明会に出席し、組換えDNA実験について説明したこと、前記の被告理化学研究所理事長の諮問機関である組換えDNA実験安全委員会にはつくば市の推薦する四名の者も参加することになっていること、前記科学技術会議ライフサイエンス部会には実験推進者側でない法学者、一般知識人も構成員となっていることが認められ、社会的承認と公正さを保持するよう努めているのであって、前述のとおり、組換えDNA実験の実施については生物災害防止の措置を講じ、その安全の確保が図られていると認められる以上、この点の原告らの主張も理由がない。
六本件各実験に関する原告らの主張について
1 本件各実験の内容及び実施の経過
本件各実験がすでに本件P4実験室において行われたこと及び各実験の概要については、第二、二5に記載したとおりであるが、さらに詳しくその内容及び実施の経過と結果等についてみると、証拠(<書証番号略>、証人井川洋二、弁論の全趣旨)よれば、本件各実験で用いられたモロニーマウス白血病ウイルスを含むレトロウイルス(逆転写酵素をもち、遺伝子としてDNAではなくRNAをもったウイルス)は、感染した宿主の染色体に自身の遺伝情報を挿入してしまう機能を本来的に有していることから、組換えDNA分子を宿主細胞に組み込むためのベクターとして有効であり、また遺伝子治療などの面でも役立つものと考えられているが、同時にこのレトロウイルスの多くは感染した細胞がもっている癌遺伝子を働かせて腫瘍化する能力をも有しているため、これを安全にベクターとして用いるためには、細胞に感染して、目的とする組換えDNA分子を細胞に導入した後は、二次的なウイルスを産生せずに、予定外の遺伝子伝播を行わないことが絶対条件となること、本件各実験は右のような観点から、両性レトロウイルス由来のベクターが、予定外の遺伝子伝播を行う可能性の有無について評価することを目的として行われ、具体的には、番号一六の実験では、マウス及びラットにのみ感染するモロニーマウス白血病ウイルスをヒト細胞にもマウスにも感染しうる両性レトロウイルスに改変したものを、二次的なウイルスの産生がないように、その増殖のための遺伝子(パッケージングシグナルの部分)を欠損させて、パッケージング細胞に導入してウイルスRNAのない空のウイルス粒子を作らせ、そこに標識遺伝子としてras癌遺伝子を組み込んでマウス及びヒト細胞に感染させ、腫瘍化を起こすウイルス粒子の出現の有無を検索しようとしたもの、番号一七の実験は、番号一六とは別のパッケージンク細胞を使用し、また、標識遺伝子として抗生物質(ネオマイシン)耐性遺伝子を組み込んで、同様にマウス及びヒト細胞に感染させ、ネオマイシン耐性遺伝子をもつウイルス粒子の出現の有無を検索しようとするもので、いずれも理論的には増殖のための遺伝子が欠損しているため二次的なウイルスは産生しない筈であるが、感染した細胞の中で遺伝子を一部入れ替えたりして変化し、自己複製能を回復して二次的ウイルスを産生することがないかどうかを確かめようとしたものであること、実験の結果としては、ヒト及びマウスの各培養細胞の培養液中に二次的ウイルスの存在は認められず、また、マウス固体に接種しても癌化しないことが確認され、理論どおり二次的ウイルスの産生のないことが実証されたこと、一方、本件各実験の実施に当たっては、その実施前に本件P4実験室の各設備の試運転及び性能検査、そして実験従事者に対する事前の健康診断とグローブボックスの操作訓練や安全確保のための事前教育等が行われたこと、実験の実施中、操作に過誤はなく、グローブボックス内、P4実験室内はいずれも条件どおりの陰圧が保たれ、また、すべての実験材料はグローブボックス内で扱われ、不要になったものは随時滅菌処理してボックス内に保管し、実験終了時さらにホルマリン滅菌が施されたこと、実験区域からの排水は高圧蒸気滅菌して、滅菌の確認後さらに薬液滅菌のうえ排出され、また、排気装置に関しても異常のなかったこと、実験終了後、P4実験室、グローブボックス内はホルマリン滅菌され、その確認のために落下菌検査を行ったが陰性であり、実験従事者に対する実験後の健康診断においても異常のなかったことがそれぞれ認められる。
2 本件各実験による生物災害の発生のおそれ
原告らは、本件各実験においては、人体に腫瘍化を起こすウイルスや抗生物質耐性遺伝子をもつウイルスの出現が予定され、また、予定外の遺伝子の伝播の可能性の有無の確認も行われるものであるとして、右のようなウイルス或いは予定外の遺伝子の出現によって生物災害が発生するおそれがあると主張するのであるが、前記認定したように、そもそも本件各実験は右のようなウイルスの出現はありえないとの理論的検討のもとに行われ、実際にもそのようなウイルスの産生は認められなかったものであり、また、予定外の遺伝子の伝播の可能性というのは、前述のように増殖のための遺伝子を欠損させたレトロウイルスが、感染した細胞の中で遺伝子を一部入れ替えたりして変化し、自己複製能を回復して二次的ウイルスを産生するようになるか否かの可能性を指しているものと解されるのであって、原告らのいうように予定外の遺伝子が新たに出現してくるようなことを考えているものではなく、また本件各実験によりそのような遺伝子が出現する可能性のあることを認めるに足る証拠も存しない。
また、原告らは、本件各実験による具体的な被害の発生は未だ不明というべきであるとも主張するが、本件各実験によってウイルスや組換え体等が漏出したり、それによる被害の発生を疑わせるような事実については何らの主張立証もないのであって、本件各実験で採用されたP4レベルの物理的封じ込めの前記内容、実験に使用したレトロウイルスについて、その自己複製能を欠損させて生物学的安全性を高める措置が講じられていたこと、そして実験の前後においてとられた前記のような安全確保のための措置及び実験後の検査、確認とその結果などに照らしても、ウイルスや組換え体等の漏出のおそれは認められないというべきである。
七原告らの本訴各請求について
1 差止め請求について
原告らは、P4レベルの組換えDNA実験により、その生命、身体に回復しがたい重大な被害を受ける危険性があり、そのため、現在、平穏で安全な生活を営む権利を侵害されているとして、不法行為及び人格権侵害を根拠として、本件P4実験室をP4レベルの組換えDNA実験に使用することの差止めを求めている。しかしながら、仮に、平穏で安全な生活を営む権利(以下、平穏生活権ともいう。)の侵害を理由に本件P4実験室の使用の差止めを請求し得る場合があるとしても、右の平穏生活権或いは人格権の侵害は、それが客観的に違法といえる程度に重大で、社会生活上、通常人が一般に受忍すべき限度を超えたものであることが必要である。そして、右の平穏生活権或いは人格権の侵害の前提である生命、身体の侵害はすでに発生しているか、未だ発生していなければ、これが発生することの客観的な蓋然性がなければならない。しかし、すでに検討したように、本件P4実験室を使用して行われた番号一六、一七の各実験によっても、右の生命、身体の侵害が現に発生し、或いは発生しつつあるとは認められず、また、本件P4実験室で将来行われるであろうP4レベルの組換えDNA実験によって右の侵害が発生する客観的な蓋然性も認められないのである。原告らが主張するところは、右の被害発生の抽象的な可能性であるといってよく、これから原告らの意識を媒介にして主観的な不安感が生じ、平穏で安全な生活を営む権利が侵害されていると主張しているものであって、更に利益衡量をするまでもなく、それが、一般に受忍すべき限度を超えた平穏生活権或いは人格権の侵害といえないことは明らかであって、その余の点について判断するまでもなく、到底原告らの差止め請求を認めることはできない。
また、原告らは、生命、身体の安全性の意識の侵害を前記差止め請求の理由に付加して主張するが、これが差止め請求の理由となるほどの利益の侵害にあたらないことは、後記の損害賠償の請求につき述べるところから明らかである。
なお、原告らは、本件施設の建設に当たっては環境アセスメントも反対住民に対する十分な説明も行われておらず、また、そこで行われる各種実験の内容についても十分な情報が公開されていないとして、そのような場合は、原告らは本件P4実験室での組換えDNA実験により受忍限度を超える公害被害が生じる一般的抽象的蓋然性のあることを立証すれば足り、右立証がなされたときは、被害が発生しないことを被告側が立証すべきであると主張するが、本件施設の建設及び本件P4実験室の設置に当たって環境アセスメントをなすべき義務があるとする根拠はなく、したがって、これが行われておらず、或いは住民に対する説明や実験に関する情報の公開が不十分であったとしても、そのことの故に、本件のような差止め請求訴訟において、ただちに原告ら主張のような立証責任の軽減或いは転換を図るべきであるとは解されない。
2 損害賠償請求について
原告らは、番号一六、一七の各実験の実施によって、原告らの平穏で安全な生活を営む権利或いは安全性の意識が侵害されたとして、その損害の賠償を求めているが、右にいう安全性の意識はその内容が極めて抽象的かつ曖昧といわざるを得ないうえ、本件の内容に照らしてみても、一般に精神的被害として慰謝料をもって償われるべきものとされる現実の精神的苦痛や恐怖心などとは異なり、漠然とした懸念、不安感或いはせいぜい危惧感という程度の心理的負担ないし感情であって、差し迫ったものとは認められないので、これをもって法律上保護されるべき利益ということはできず、仮に原告らがその主張するような安全性の意識を侵害されたと感ずることがあるとしても、法的には原告らの主観的感情が害されたという以上にその権利ないし法律上保護に値する利益が侵害されたものとは認められないので、これが前記差止め請求の理由となり得るものでないことはもとより、不法行為による損害賠償請求の理由ともなり得ない。その他、本件各実験によって、原告らの権利、利益が具体的に侵害された事実の認められないこともすでに述べたとおりであるから、その余の点について判断するまでもなく、原告らの損害賠償の請求も理由がない。
八結論
以上によれば、原告らの被告らに対する本訴各請求は、いずれも理由がないので、これを棄却することとする。
(裁判長裁判官福嶋登 裁判官浅香紀久雄 裁判官西島幸夫は填補のため署名押印することができない。裁判長裁判官福嶋登)
別紙
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